言葉の不備

 ウィキペディアの「多重質問の誤謬」を見ると,次の様に説明してあります。

たとえば「あなたはまだ妻を虐待しているのか?」といった質問がある。この質問に対しては「はい」と答えようが「いいえ」と答えようが、「あなた」には妻がいて過去に虐待したことがあるということを認めたことになる。

 全くその通りですが,ここでは「多重質問の誤謬」を題材に借りて別の話を述べます。形式論理的に質問を少し変えると,

   質問 「あなたが妻を虐待していたとしたら,あなたはまだ虐待している」の真偽は?
 
 もし,あなたが虐待していなかったならば,答えは真です。形式論理では,「AならばB」はAが偽の場合,Bの真偽に係わらず真ですから。なぜかというと,それが定義だからという身も蓋もないものです。ただ,それだけでは,日常言語の感覚から非常に違和感があるので,さまざまな解説がなされています。ざっと探してみると,次のようなものがあります。

【具体例による感覚的な説明】
 
 「故障ならば修理する」その結果,正常に作動
 「故障ならば修理しない」その結果,正常に作動しない
 「故障でないならば修理する」その結果,正常に作動
 「故障でないならば修理しない」その結果,正常に作動

 あるいは, 
  大学に入ったならば勉強する。それは正しい。
  大学に入ったならば勉強しない。それは間違い。
  では,
  大学に落ちたならば,勉強してもしなくても。別に間違いじゃないでしょ。

【対偶による説明】

 「AならばB」の対偶は「Bでないならば,Aでない」。ここで,AもBも偽の場合は,対偶「真ならば真」となり,それは真。よって,「偽ならば偽」は真。
 次に,Aが偽,Bが真の場合の「AならばB」を偽とすると,「AかつB」の真理値表と同じになる。よって,「AならばB」は真としないと都合が悪い。

【否定による説明】

 「AならばB」の否定は,「AだがBでない」。これは「AかつBでない」。これを再度否定すると,「Aでないか,またはB」(ド・モルガンの定理)。これで,Aが偽なら,「Aでないか,またはB」は真。

 納得する人もいるでしょうが,私はすっきりしません。具体例による説明は,真偽と正常作動や正しい行為は違うのではないかと言う疑念がありますし,具体例によって,違和感を感じたり,しなかったりするのは何故かと新たな疑問が生じます。また,対偶や否定による説明は同値関係を利用していますが,同値なのに違和感を感じたり,感じなかったりするのは何故かと疑問になります。虐待していないのに「虐待していたならば,まだ虐待している」が真,に対する違和感は消えません。

 どうも,何か肝心な所が抜けている気がしてなりません。そこで,そもそも何故違和感を感じるのかを考えて見ます。違和感を感じるのは,偽と感じるからですが,では偽であることを説明せよ,と言われるとはたと困ってしまいます。どうも,正解を偽と感じるのは,「AならばB」と「A」や「B」を混同しているようなのです。前提が偽なら偽だろう,あるいは結論が偽なら偽に決まっていると考えているようなのです。でも,「A」や「B」の真偽ではなく「AならばB」の真偽を尋ねられているのです。

 では,「AならばB」の真偽とは何でしょうか。わかりきったことのようで,考え出すと,そもそも真偽を言えるようなものなのか怪しくなってきます。例えば「犬ならば動物である」は正しいので真と言えると感じます。しかし,AやBには何を代入しても構わないのです。「私が飼っているのが犬ならば,今日は天気が良い」は支離滅裂な文ですが,私は確かに犬を飼っていて,今日も天気が良かったとすると「真ならば真」となっていて真となります。この真とは一体何なのでしょうか。常識的な言語感覚からば,「犬ならば動物である」のようにAとBに因果関係があれば真で,無ければ偽です。でも,形式論理ではそのような条件はありません。日常用語の「ならば」と形式論理の「→」には違いがあります。

 上記の否定による説明で「Aでないか,またはB」というのが出てきました。「AまたはB」や「AかつB」の真偽は常識的な感覚と合致します。しかし,よくよく考えて見るとこれらの真偽というのもあやふやです。「AまたはBである。」と「AまたはBのどちらかが真である。」は違う文ですが,真偽は同じといえるのでしょうか。「AまたはB」の真偽がわかるような気がするのは,「AまたはBの少なくとも一つが真であれば真とする」という前提があるからではないでしょうか。この前提が成り立つ保証はないのに,たまたま「AまたはB」という表現が共通しているので,成り立つと感じるだけではないでしょうか。言い換えれば,「AまたはB」の真偽を言うにはその定義が必要ですが,言語感覚として定義されているように勘違いしているのでは無いかと言うことです。「AならばB」の場合は,定義されているように感じるのはAとBに関係があり,Aが「真」の場合だけです。

 感覚的に説明しようとしたので,冗長になってしまいましたが,形式論理の体系からは次の様に簡単にいえるかと思います。形式論理では,真偽の値を持つ文(AやB)を論理記号によって組み合わせた文の真偽がどうなるかを示すものですが,基本的な組み合わせは定義する必要があります。複雑な組み合わせの真偽はそれらを推論規則に従って変形していけば得られ,これを証明と呼びます。ここで,「AまたはB」や「AならばB」は基本的なもので,定義する必要があります。この際「AならばB」は日常言語感覚にはなじみません。もちろん,定義なので常識的言語感覚に合わせて決めることも可能ですが,その場合,他の基本組み合わせと同じになるので,そちらも変える必要があります。すると,そちらが常識的言語感覚に合わなくなってしまいます。

 結局,日常言語をモデル化したものが,形式論理の体系ですが,完全に一致していないので,違和感があるのは当然というありふれたまとめに行き着きます。一致しない原因は言語が自然発生したものである以上,不備があるためではないかと思います。ただし,その不備を不備のある言語で説明するのは非常に難しく,ありふれた言い方はできません。パラドックスの多くは,言語の不備による混乱や混同に由来しているような気がします。