衣食足りて礼節を知る

  子供が殺人事件を起こすと、繰り返し見かけるのが「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけです。現実には、大人は死刑や戦争で人殺しをしていますから,「問答無用,殺してはいけないのだ」ではダブスタで説得力に欠けます。個人的に腑に落ちる説明は宮台 真司氏(オリジナルがどうかは不明)の「人は殺しても良いが,仲間を殺してはいけない」というものです。殺人禁止は社会生活上の行動規範ですが,社会とは仲間の集団のことであり,集団外のよそ者には適用されないと言う考え方です。これによれば,死刑囚は仲間の権利を剥奪された人間であり,敵国人はそもそも仲間ではないので、殺しても構わないことになります。一応の理屈としてはスッキリしています。

 ただ,現実問題としてはスッキリと片づくと言うわけにはいきません。実際上の問題として,誰をよそ者認定するかという社会的合意が難しいと言うことがあります。仲間なのかよそ者なのかは流動的で,TPOで変わりますから,恣意的にも見えます。恣意性を無くすには,極論に走る必要があります。極論の一方には,全人類を仲間と見なし,一切の死刑や戦争を否定する考えがあります。しかし,この場合でも個人的な正当防衛殺人は認めています。反対側の極論では,一切の社会的関係を廃した一匹オオカミ的考え方があります。その考え方では誰を殺そうが自由だし,自分が殺されても文句は言いません。ただし,この考え方は群れをなす生物である人間の本質に反するところがありますので相当無理があります。他者の協力無しに純粋に一匹オオカミとして生存することは殆ど不可能なので,すぐに淘汰されてしまうでしょう。従って,仲間のフリをして,必要に応じて裏切り殺人をすることになりますが,長期的に仲間のフリをすることはできませんので上手くいきません。裏切りには報復がありますから。

 裏切り戦略や報復を一切行わない協力戦略は巧く行かず,しっぺ返し付きの協力戦略が有効であることは,ゲーム理論のコンテストで実証されているのは有名です。世界には,死刑を認めない国もありますが,殺人を一切認めていないわけではありません。いわゆる正当防衛です。これを認めないと,ルール違反者に対抗して社会を維持することが困難です。正当防衛は緊急の個人的殺人であり,国内社会の報復殺人が死刑であり,国際社会の緊急あるいは報復殺人が戦争と考えられます。

 緊急あるいは報復殺人をどの程度認めるのかは,原理原則の問題ではなくて,経済的余裕や技術的理由で決まるように思えます。相手を殺さずとも身を守れるだけの余裕があれば,殺さなくても済みます。剣豪がみねうちで相手を殺さずに身を守れるのは,相手との圧倒的実力差があるからです。

 経済的余裕が少なく,技術も未発達な原始社会では,部族間抗争が絶えません。敵を捕虜として,或いは殺人犯を囚人として養っていく余裕が無いので,殺さざるを得ないわけです。さもなければ自分が滅ぼされてしまいます。 

 現代日本人は裕福ですが,過去には間引きや姥捨ての歴史もあります。現代でも国際的な紛争が絶えないのは,まだ国際社会が裕福ではないためではないでしょうか。1国内では死刑廃止できるほど豊かな国は存在しますが,一切の戦争放棄できるほど国際社会は豊かでは無いのかもしれません。戦争や死刑を無くすには豊かになる必要があるのではないでしょうか。つまり,衣食足りて礼節を知るです。