余計なお世話

『自然界の同性愛を描いたイラスト』が同性愛反対論へ一石を投じる「キリンBL」他
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/825653

 「同性愛は自然の摂理に反する」への反論として「自然界の動物にも同性愛は見られる」は要注意です。揚げ足をとられるおそれがあるからです。すぐ思いつくのは,「動物でも見られるという理由で人間も行ってよいのなら,強姦や子殺しも許されるのか」の類の突っ込みです。逆に自然界の動物では見られず,人間だけが行う行為は自然の摂理に反すると考えていると誤解されかねません。人間のみに見られる行為は無数にあります。文字の使用,落語観賞,料理の賞味,野球観戦・・・。

 おそらく,「自然界の動物にも同性愛は見られる」の本意は,「同性愛も自然の摂理に反しない」ではなく,「自然の摂理なんぞは同性愛の是非の根拠にはならない」であろうと思います。その本意は明示しておかないと,藁人形攻撃を受けるハメになります。科学の一分野である生物学は,自然がどのようになっているかを記述するだけで,その是非には言及しません。

 とはいっても,同性愛は病気や障害ではなく,生物学的にも何らかの機能や役割があると言えればそれに越したことはないという色気を出す人もいるかもしれません。例えば,多様性による説明です。環境の変化に多様性を持つ集団は強いので,異性愛だけでなく,性の多様性にも意味があると言えそうです。確かに言えると思いますが,同時に子殺しも生物学的に意味のある戦略なので,それも認めなくてはならなくなります。盗みも殺人も生物学的には意味があるので,倫理的是非の根拠にはなりません。

 繰り返しになりますが,進化論のような生物学は,遺伝子繁殖には多様な戦略があることを示しているだけです。倫理も人間の戦略として説明出来る可能性も有りますが,そうだとしてもそれは人間の倫理であり,動物の同性愛とは無関係です。また,人間の中でも様々な倫理があり,どの倫理が戦略上最も有利なのか言うことも出来ません。それも環境次第ですから。

 ということで,同性愛の是非について生物学やら自然の摂理が根拠にならないのなら,何に基づき判断すれば良いかが次の課題になります。私が思うに,是非を判断しようとするのも勘違いです。同性愛は是非ではなくて単に個人の趣味の問題だと思います。反対論者は趣味に合わず気持ち悪いだけなのです。しかし,趣味は個人の自由なので他者に強制は出来ず,強制するためには他者を規制できるルールが必要になります。その後付のルールとして倫理やら宗教的教義が考え出されたのだと思います。さらに,倫理や宗教的教義の根拠としてより普遍的な「自然の摂理」で根拠づけたいという色気も出てきます。

 個人的信念や宗教的禁忌だけでは他者に信仰を強制出来ません。賛同者を増やすためには,普遍的なルールに従っていると言ったほうが説得力が増します。例えば,生殖を目的としない快楽のための性行為や結婚を認めない宗教も有ります。その根拠として生殖こそが自然の摂理であるというわけです。しかし,それだと妻の閉経後は離婚しなければならず,不妊者の結婚も禁止しなければなりませんが,そこまで規制する宗教は私は知りません。また聖職者に禁欲を課す宗教も珍しく有りませんが,自然の摂理というのは無理があります。こういう事を考えれば,自然の摂理は方便であって,同性愛が趣味に合わないだけであろうと想像がつきます。なにしろ宗教の種類は無数にありますから,総てに共通していない限り普遍的とは言えません。

 このような,普遍的な根拠を欲しがる傾向は,道徳の根拠を科学に求める「水伝」などにもみられます。インテリジェントデザインもその一種と言えます。これらに反論する際,彼らに付き合って科学や自然の摂理を持ち出せば同じ穴のむじなです。

 個人の性癖,趣味嗜好に係わることは,社会的ルールに反しなければ,勝手です。イスラム国は違いますが,少なくとも日本では宗教的禁忌や個人的信念は社会的ルールではありません。冒頭に人間だけが行う行為として品の良いものばかり羅列しましたが,変態的行為だって勝手です。私はお勧めしませんが,喫煙という健康に悪い行為も愚行権として個人の自由です。スポーツも面白いからするのであって,体に悪くても構いません。私的趣味嗜好は,別に人類や社会の為にやっているんじゃ有りません。そんな理屈を付けるとかえって息苦しくなって趣味を楽しめなくなってしまいます。

 同性愛反対と同性愛擁護の意見は対称関係ではありません。同性愛擁護は同性愛を強制したり,異性愛を禁止したりしませんが,同性愛反対は異性愛を強制し,同性愛を禁止します。同性愛擁護は,異性愛者になんら干渉しませんし,危害も加えませんが,同性愛反対は,同性愛者に干渉し,場合によっては危害を加えます。 

 反論は「余計なお世話」で十分。