公正と報復

お金持ちを貧乏にしても、貧乏な人はお金持ちになりません。

 サッチャーの言葉です。この様な言葉があることが,お金持ちの足を引っ張りたい貧乏人が多いということを暗示しています。足を引っ張ると書くと悪い印象ですが,「自分が損しても,不正,不平等は許さない」なら正義感が強そうに感じます。最近も公務員ボーナス増はおかしいという記事を見ました。民間が不景気で苦しんでいるのにけしからん,みんなで地獄に堕ちようと言っているのでしょうか。あるいは,社会の公正さを求める意見なのでしょうか。真意は不明ですが,この種の意見は頻繁に見かけます。お金持ちは概ね悪く言われますが,悪く言う人も宝くじを買います。

 感覚的な印象にすぎませんが,人間はひがみ根性が強すぎるのではないかと私は随分以前から感じていました。住民説明のような仕事をしていると,他の人とは違う補償などに,敏感に反発する人が多いのです。公正さを求める感情は,報復感情とセットになっているようなところがあります。私自身も自分の利益には全くならないのに,他者の利益が少なくなると怒りが和らぎます。後で,不当な利益だから当然の報いであると合理化して気持ちを整理することも忘れません。「他人の不幸は蜜の味」は,お笑いのネタになるくらいですから,誰もが思い当たるはずです。

 ダン・アリエリーの「不合理だからうまくいく」に,報復について調べた「信頼ゲーム」と呼ばれる実験ゲームの記述があります。二人で協力して出来るだけ多くの報酬を得るゲームです。ただし,協力も裏切りも可能で,裏切りにパートナーがどの程度の報復をするか調べたものです。報復は身銭を切って行う必要があるのですが,多くの被験者がお金を払ってまで報復したそうです。別の実験では,社会規範を破ってまで報復することも確かめられています。態度の悪いレジの店員がおつりを間違って多く渡した時にネコババしてしまう人は結構います。ネコババ程度のかわいらしいものではなく,度の過ぎた復讐もフィクションでは人気です。巌窟王から必殺仕掛け人そして半沢直樹まで復讐譚はスカッとします。でも現実には,経営破綻した銀行を政府が支援したり,殺人犯が死刑にならなかったりと,とかく生ぬるいので,私たちは床屋談義で怒りを発散することが多くなりますが。

 信頼に基づく社会規範は重要ですから,それを破るものへの報復は社会規範維持上の意味はあります。そのためか,人間は規範破り(ズル)を瞬時に判断する能力があるようです。マット・リドレーの「赤の女王」に,そのことを示唆する記述があります。ウェイソン・テスト(四つのカードの問題)の解釈を巡るコスミデスとギーゲレンツァーの実験についての説明です。ウェイソン・テストはご存じの方も多いと思いますが,次のような問題です。

【抽象バージョン】
 A,K,4,5と書いてある4枚のカードがあります。4枚のカードには、全て片面に数字が、もう一方の面にはローマ字が書いてあります。「もし、カードの片面にローマ字の母音が書いてあれば、その裏面の数字は偶数である」というルールが成立しているかどうかを調べるためには、最小限、どのカードをめくってみればよいでしょうか?

 この問題には,「A」と「4」と間違える人が多いのですが,全く同じ論理構造の次のバージョンになると正解が増えます。

【日常具体的バージョン】
 ビールを飲んでいる人間は20歳以上でなければならない。このルールが守られているか調べるには,「ビールを飲んでいる人間の歳を確かめる」,「コークを飲んでいる人間の歳を確かめる」,「25歳の人間の飲み物を確かめる」,「15歳の人間の飲み物を確かめる」のうちどれが必要ですか?

 このことから,抽象的論理に人間は弱いが具体的状況だと正しく判断出来ると説明してある場合が多いのですが,まだ続きがあるのです。次に示す実験結果から,この説明では不十分だと分かります。

 年金を受給しているなら勤続10年以上であるというルールが守られているか,雇用者の立場で考えるようにと被験者に指示します。そうすると,「勤続8年」と「年金受給」というカードの裏を知りたがり,良い成績を収めます。ところが,従業員の立場で考えるようにと告げると,裏返したカードは「勤続12年」と「年金未受給」のカードが多くなります。雇用者の立場だとルール違反の不正を正しく見抜けますが,従業員の立場だと間違いが増えるのです。どちらも具体的状況なのに違いがあります。おそらく,雇用者にせよ従業員にせよ自分の立場の損害を判断しているのでしょう。雇用者の場合は,損害を受けないことと,ルールを守ることがたまたま同じだったのです。論理的思考は苦手でも利害の判断は得意なのが人間のようです。

 生存競争という観点からは,生き物は自分の利益が第一です*1。ただ,人間のような社会的生き物は他者との協力関係で利益を増やすことに成功しました。一時的,部分的に損害を受け入れても,長期的,総合的には利益が増えます。そのための手段として社会規範を発達させました。損害を受け入れるという一見本能に反するようなことも出来るのが人間です。社会規範を守ることは,人間が発達させた文化で本能そのものではありませんが,かなり強く人間の本性のようなものになっています。ところが,この本性を杓子定規に適用するのも色々と弊害を招きます。裁判官も法の適用には情状酌量でさじ加減をします。それを社会通念と呼びますが,一般的には常識ということだと思います。

 歴史的スケールの時間を掛ければ,人間は規範を作り出して本能を修正することもでき,さらに修正するための手段である社会規範もまた修正することが出来ます。ただ,後者については,まだ不十分で無益な報復感情を持つ場合も多いように感じます。冒頭にひがみ根性を強く感じると述べたのはそのことです。社会規範を維持することで長期的な利益につながる報復行為もあれば,単なる憂さ晴らしでむしろ不利益になる報復行為もあります。自分の報復感情がどちらなのかは考える価値はあると思いますが,判断は難しいかもしれません。報復感情は無意識に根ざす感情なのですから。感情の発現が程よいさじ加減ならば結果的に利益につながりますが,それは過去の長い歴史や,自分の育った環境で調整されてきたものです。意識的に決めたり,修正するのはなかなか難しそうです。それでも,一呼吸おいて考えれば頭を冷やす効果ぐらいはあるんじゃないかと。

*1:あくまで大ざっぱな話です。自分の中で異なる遺伝子が生存競争していますので,一概に自分が何かは決められません。組織の意思統一が難しいように,自分の意思統一も難しいです。別に遺伝子を持ち出さなくても,優柔不断や葛藤は昔からの文学のテーマです。