フィクションを必要とする人権

人権は神に祝福されたものか、それとも政府によって出し渋られたものか?- 忘却からの帰還
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「フィクションが有用なのは、フィクションがフィクションだと見なされていないときだけだ」と述べて、「創造の教義」ではなく「創造の事実」が、人間の尊厳の保証にために必要だという。まさしく、それが故に、進化論を教義上ではなく、「科学的」に否定されなければならないのだと。

 インテリジェントデザイン主唱者は,「神によって与えられたものや事実しか尊重されず,人間が作り出したものは尊重されない」と言っているようです。神のような権威の裏付けが無ければ,価値がないという考えているのでしょう。言い換えれば,人間が努力しなければ維持できないようなものには価値がなく,人間の努力に関わりなく外部の権威によって守られているものこそ価値があるということになります。しかし、人権が神によって保護されているのなら,人間が守ろうと努力する必要もないことになってしまうではありませんか。

 もちろん、インテリジェントデザインはそう言いたいのではないでしょう。維持の努力は必要だけど、その動機として「神から与えられたものだから、事実だから」という権威が必要だと言っているだけでしょう。それが良く表れているのが、次のフレーズです。

 「フィクションが有用なのは、フィクションがフィクションだと見なされていないときだけだ。」

 多分、「フィクション」とは人間が作り出したものという意味で使われています。人間が自分で作り出したものでも神の作為だとみなされて初めて有用となるわけです。「みなされていないとき」という表現は実に示唆的です。本当はフィクションでもフィクションとみなされないならば有用であると仄めかしているようです。

 差別問題にも似たところがあります。差別がいけないというためには、実際に人種や性別で違いがない必要があるという考え方です。でも違いがあるから差別が発生しているのが現実で、違いがあっても差別はいけないと人間が考えただけです。「人間が考えただけ」では頼りないという自信の無さが神や自然という権威を求めるのだと思います。

 法律や警察が必要なのは犯罪が頻繁に発生するからです。法を守らせるのは人間自身の都合のためです。しかし、それでは弱いと感じる人は、性善説を信じ、犯罪を犯すのは異常者だと考えます。それにしては犯罪は多すぎます。自然のままに放っておけば犯罪を犯すのが正常な人間なので、法律で規制する必要があるというのが本当のところではないでしょうか。宗教や倫理もその為に必要なものでしょう。進化論は生物の世界は競争であると説くものですから、性悪説に近くなります。性悪説では宗教や倫理が尊重されないと恐れる人もいますが、むしろ宗教や倫理の必要性に繋がると思います。

 宗教におけるフィクションは医学のプラセボに似ています。「プラセボが有用なのは、プラセボプラセボと看做されていないときだけだ。」ということもできます。現代医学でも部分的にはプラセボを許容していますし、実際に効果を発しています。だからといって、「プラセボなど存在しない。すべて真実なのだ」と現代医学は主張しません。現代宗教も同じではないでしょうか。例外がインテリジェントデザインで、すべて真実でないと困るという自信の無さを感じます。