言葉にならない

 大雪です。周囲の道は雪だらけで歩くと疲れます。

 ところで、雪ではなく、「地獄への道は善意で敷き詰められている」とよく言われ、善意も疲れます。悪いことに悪意の人なんて殆どいませんから疲れることが多いです。少なくとも自ら「悪意」だと自覚している愉快犯は滅多にいません。私の親はしばしば仕事上のトラブルを起こしていましたが、「厚意でしてあげたのに」と口癖のように言っていました。

 最近も、善意の塊のような方が起こした行為が周囲に理解してもらえず、悔しい思いをしているという痛々しい光景が繰り広げられています。

 その方は長らく病気のため肉体的に苦しめられてきただけでなく、周囲の無理解でも精神的にも苦しめられていました。そのような状況で、自分の病気を理解してくれる医者(および病気に対する解釈)に出会い大いに救われたのです。ところが,自分にとっての救いである医者(および病気に対する解釈)を批判する人物が現れたのです。いてもたっても居られなくなり、その人物に抗議したのですが、残念なことに言葉が下手で,文章に上手く出来ず,返り討ちのような状況になってしまったのです。その人物が嘘つきで信用できないことは明白な真実と思えるのですが。

 真実であることは確かなのに、うまく言葉に出来なくて切歯扼腕という経験は私にもよくあります。真実であることは確かだと思えるのに・・・、多分確かなのに・・・、ひょっとしたら確かかな・・・。実は真実ではなくて、あとで恥ずかしい思いをしたという場合が多かったです。

 理解したことを文章に表そうとするとうまく出来ない場合は、理解したつもりになっていただけということがほとんどです。しかし、このことは逆に説得の道具として使えるということも意味します。別に、相手を理詰めで説得したり、理解させる必要はありません。特に対面の場合は、熱心に話をすれば話を分かってもらえることがあります。共感を得る事が出来ます。だから、不可能に思える場合でも、諦めず情熱を持って仕事に立ち向かえという教訓が得られます。

 当然、お分かりかと思いますが、これはセールスマンの教訓です。さらに詐欺師やブラック企業の手口にもつながります。それだけでなく、実社会のコミュニティではこのような「共感」で成立していることが多いです。例えば家族は理屈で結びついているわけではありません。それに対して、ネット上では理屈優先ですから「共感優先」の人は困った人と看做され、上述のような痛々しい光景になりがちです。実社会はこのような困った人も、多少甘えた根性だと思われるくらいで、十分受け入れる器量があるのですね。正確に言葉にできなくでも、身振り手振りなどの言葉以外の媒体で意思を伝える事が出来ます。あるいは伝わったと思い込むことが出来ます。

 従って、実際の対面ではそれほど違和感を感じずにお付き合いできるのかもしれません。というか、人間一人では生きられませんから、実際にお付き合いしている人がいるはずです。そのような事情があるので、ネット上の見知らぬ場所で、理詰めで叩かれると「なんだこの攻撃的で温かみのない場は、これがモヒカン族か」と疎外感を感じるのかもしれません。

 私などは実社会で疎外感を感じることが多い方かも。人それぞれ生きる場所はあるものです。世が世なら。