「夢幻諸島から」

■読書中の感覚
 
 プリーストの「夢幻諸島から」を読みました。退屈で眠くなったりしながらも,何か有りそうだと最後まで読んでしまいました。最後まで読んでも何も有りませんでしたけど。

 個人的には感覚的な小説が好みで,あれこれ考えないといけない理屈っぽいメッセージがあるのは苦手です。「夢幻諸島から」は前者なのだと今は思うのですが,発している感覚が予想外でしばらく気づけませんでした。簡単に言えば「なんだかよく分からない不全感」ということになりますが,小説のメッセージが分からないという不全感ではありません。

 プリーストの作品で好きなのは引き込まれるような感覚がある「魔法」と「双生児」です。これらも含めて,プリーストの小説は,答えがないことがわかりきっているのに答えを求めてあれこれ考えたくなる共通点があると思います。答えとは一見不思議に感じる現象を整合的に説明する答えという意味で,ミステリーの謎解きの回答みたいなものです。プリーストの小説の体裁はミステリー風だったりします。

 それで,あれこれ考えると,答えがないということは「真実がない」ということが思いつきます。現実の世界は混沌としていて,小説のような1つの真実や正義があるわけではありません。ウソやインチキも溢れています。ただ,これをテーマにした小説や映画はありふれています。そして,メッセージ自体は頭で理解する説明であって,感覚的なものでは有りません。感動のような感覚は小説の中の逸話から感じます。

 そもそも「真実はない」は説明であって美しいとか悲しいというような感情や感覚ではありません。しかしながら「真実はない」という状況には「イライラする」のような感情を感じることが出来ます。とはいえ,単にデタラメで退屈な小説でもイライラすることが出来,それを持って素晴らしい作品と評価することは出来ません。普通,評価されているのは,虚構の中の登場人物のイライラ感を表現し,それに読者が感情移入して同じ感情を味わえる場合です。

 ただし,そのイライラ感は小説の中のいくつかの逸話についてだけです。現実世界では逸話が無数にあり,それらが整合しないイライラ感がありますが,それをそのまま小説に落とし込もうとしても,膨大なボリュームになるという技術的困難で実現困難です。仮に実現出来たとしてもそのボリュームのため,全体が俯瞰出来ません。もちろん俯瞰出来ないが故のイライラ感なのですが,小説にしてしまうと,小説が俯瞰出来ないというイライラ感になってしまい,小説がモデル化した世界が俯瞰出来ないイライラ感とは違って来ます。これは先ほど述べた退屈な小説へのイライラ感になってしまったということです。

 別の言い方では,小説がモデル化した世界に入り込んで,いくつかの逸話についてイライラ感を味わうことは可能でも,現実の世界で味わっている世界全体に対するイライラ感を感じるのは難しいということです。時間を掛けて読み解くことは出来ますが,瞬時に感じることは難しいわけです。それは世界が大きすぎて複雑過ぎるからです。しかも世界が大きく複雑ゆえ俯瞰できないイライラ感であるのに,同じ理由で小説として味わえないというイライラ感が募ります。これは単につまらない小説にイライラしているに過ぎませんので,読書の放棄になりがちです。

 とはいえ,小説の世界に入り込んでイライラ感を味わえる可能性のある方法が一つあります。SF的設定を用いる方法です。無数の整合しない真実がひしめき合っている世界をコンパクトに表現できるからです。その結果,読後にあれこれ考えて読み解かなくても,読んでいる最中に感覚として味わえます。これはつまらない小説に感じるイライラ感と紙一重ですが,小説へのイライラ感ではなくて,小説が作り出したミニチュア世界へのイライラ感ではないかと思います。だから,退屈さにイライラしながらも読み続けてしまったのではないかと。

 以上,読後にあれこれ考えて,読書中に感じていたであろう感覚の説明を試みました。念のため繰り返しますが,小説のメッセージの解読をあれこれ試みたのではなく,読書中に感じた私の感覚の説明です。

■読後の感想

 序文に次の様に書いてあります。

真の現実は、あなたのまわりであなたが関知するものである。あるいは、幸運にもあなたが自分で思い描けるものなのである。

 アメーバのような原生生物は目も耳も有りませんので,自分が接触出来る範囲しか知覚できません。それが全世界です。私の日常生活も似たようなもので,自分が接触したり見たり聞いたりする範囲が世界のすべてで,それなりに事件や問題が発生しますが,概ね整合性のある解釈をして生活しています。それが私の真実と言えます。

 ただ,アメーバと違うのは,新聞やインターネットから遠い世界の情報が入ってくることです。本当の情報なのかと疑いながらも,世界のどこかで戦争や飢えで苦しんでいる人のことを知り何らかの感慨を感じたり,矛盾や不全感を感じたりします。この不全感や謎は解消されず,しかも退屈です。でも殆どの時間はそんなことは綺麗さっぱりわすれて生活しています。