感覚と物語

 人工知能学会表紙絵に対する批判というのは、視覚的、感覚的批判ではなくて、絵から想像できる「物語」に対する批判です。
でも、紙芝居やコマ漫画ではない一枚絵から想像出来る「物語」は人それぞれです。そんな曖昧なことについて、ああだ、こうだ言ってもしょうがないと私は思うのですが、人によっては、曖昧どころか明確な意図を読み取ってしまうのですね。

 発信側も、言葉で「ああだ、こうだ」と御託を述べることあるから、受け取る側もその気になるんじゃないでしょうか。絵や造形に、難解なメッセージを込めているような説明をする場合がありますけど、単に感覚的に面白い表現をしたかっただけと疑わしい場合もあります。

 御託を述べても大した実害はほとんどないのですが、建築物のようなものになるとそうも言っていられません。建築家はお客さんの建築主を納得させなければならないので、「ああだ、こうだ」と御託をいわざるを得ない面があります。本心は単に面白いものを作りたかったとしてもです。それでも建築主が納得すればそれはそれで良いのですが、建築物は建築主だけでなく、周囲の多数の人々の目に触れますから問題は単純ではありません。

 造形のような感覚的なことは曖昧で個人差がありますから、公共性のある造形では、統計でもとって平均的なところを目指すべきでしょうが、言葉で説明されると、曖昧さが無いように見えてしまいます。

 建築家は、異様な造形でも「環境との調和を図った」と言葉では説明します。言葉での説明では「正解」は概ね決まっていますので、あまり変なことは言えません。しかし、造形の印象は曖昧で個人差がありますので、建築家と建築主だけが調和を感じ、大多数が異様と感じる建物ができあがったりします。

 感覚的なものに、あまり物語を読み取るとろくなことはないと思います。想像上の物語を良いの悪いのといっていると感覚がおかしくなるんじゃないでしょうか。