絵から読み取れるもの

 (前エントリから,なんとなく続く)
 さて,「人工知能」の表紙絵はイラストであって,いわゆる芸術ではありません。何らかを説明する意図,目的があるものです。そのテーマは言葉で説明されるものです。さらに,絵を見た人が感じた不快感とは「差別」に関わるものですから,絵画的なものではなく,言葉で説明出来るものです。つまり,「説明図」としての是非が話題になっていたのであって,前のエントリーで説明した「絵画的感覚」の問題ではないのですね。となると,比較的技術的視点から是非を論じられる筈です。説明図として機能を果たしているかということです。しかし,設計図や図解図面という程のものではなく,あくまでイラストです。せいぜい論じられる是非とは,「デザイナーが伝えたかった意図は伝わったか」でしょう。

 これは,デザイナーの能力の評価に過ぎず,意図や思想の是非ではありません。現代日本において,デザイナーが「女性蔑視の意図を表現したかった」と例え本心で思っていたとして,そんな説明をするはずがありません。差別の是非について議論になる筈がありません。差別は駄目に決まっています。

 あえて,意図や思想の是非を論じるとすれば,「無意識かもしれないが,潜在的に差別感情があるのだ」ということでしょう。自分では否定していてもお前の本質は違うのだということです。そして多分,差別的と批判している人は,そう言っているような気がします。でもこれって,ちょっと怖いです。絵という表現から,色んなものを読み取る人はいます。私に言わせれば,考えすぎ,こじつけではないかと思われる場合も良くあります。

 差別と断罪するには,それなりの証拠が必要で,感覚的な印象で言われてはたまりません。もちろん,個人的な不快感の表明は自由です。

 もう一点,潜在意識を言い出せば,誰だって差別意識はあるでしょう。私自身,多少あります。重要なのはそれを行動に表さないことだと思います。この行動に「絵画表現」のような感覚的なものを含めては,表現の自由を脅かすのではないかと。