デザイナーの意図

 「人工知能」の表紙への反応に対する「お詫び」を人工知能学会が表明しましたが,その中に,デザイナーによるデザインの意図も示されています。

http://www.ai-gakkai.or.jp/%E3%80%8C%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E7%9F%A5%E8%83%BD%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%A1%A8%E7%B4%99%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%84%8F%E8%A6%8B%E3%82%84%E8%AD%B0%E8%AB%96%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%97%E3%81%A6/

 なんというか,絵の解説を言葉ですることに昔から違和感というか釈然としないものを感じていました。今回の場合も「意図」の説明によって,不快感が和らいだり,増したりするのか疑問に思うのですね。もし,そのようなことが有り得るとしたら,そもそも「絵」だけでは不十分な表現だったということになります。そして,不十分な表現に不快感を感じるというのも奇妙な話です。不十分で未完成の表現なのですから,不快感も快感も感じられず意味不明となるはずなのです。屁理屈を言えばです。

 多分,学会やデザイナーの意図の説明で最初の不快感が解消する人としない人がいるのではないでしょうか。私が思うには,解消する人というのは,「絵」の観賞に不向きな人です。この種の人々は「絵」を説明図としてしか受け取れず,感覚的な感受性に欠けるのじゃないかな。

 意図の説明を受けて解消する不快感とは一体どんなものでしょうか。絵だけでは不快感があるけど,言葉による説明でそれが消えると言うことはどういうことでしょうか。この不快感というのは,絵から直接受け取る感覚的なものではなく,その絵を何かの説明図として解釈して,その解釈に感じているのではないでしょうか。絵から直接的,感覚的な不快感を感じていないので,解釈を修正する言葉による説明があれば不快感は消えるのです。(解釈の修正にやぶさかではないのであれば)

 一方,絵から直接的,感覚的な不快感を感じていれば,言葉による説明を受けても不快感は無くなりませんよね。生理的に嫌悪感を催すグロテスクな絵というものがありますが,言葉で解消できるものでは有りませんからね。多分,この種の感覚は脳の情動に関わる部分と深く関係していて,言葉で解消できるものとは随分違うと思います。

 実際は,そんな単純な話では無く,微妙で複雑なものだとは思います。例えば,芸術もその背景知識の有無によって受ける印象が違うとよく言われます。背景知識は意図の説明同様に脳の皮質部分が主に関わっていると思いますが,それが,情動にも多少は影響するわけですね。

 この反応はプラセボにも似ています。薬の化学的成分に体が反応して薬が効果を現すわけですが,プラセボでは,知識(思いこみ)でも効果が出ます。プラセボへの反応というのは,化学的受容器官の能力とは無関係です。ですから,本当に薬に反応している場合と細部において違いが有るかもしれません。最終的に病気が治るという反応は同じでも,そこに至る過程で体が感じるものは違う可能性があります。例えば,本当の薬では治る前に,体が熱っぽくなるけれども,プラセボではそうはならないという具合にです。

 同様に,絵の背景知識によって増幅する感動も,純粋に絵画的な感動とは少し違うのではないかと思うのです。絵画的なものではなく,文学的と言えるかも知れません。それでも,絵画的な感動に文学的な感動が加わるだけなら結構なことです。しかしですよ,背景知識によって,絵だけから感じていた感動が消えるとしたらどうでしょうか。この場合に最初に感じていた感動は絵画的なものではなく,文学的なものでは無いでしょうか。絵だけから感じたと思っていただけで,実はそれも何らかの知識による文学的感動だったかも知れません。このような人は絵画的感受性があまり無いのではないでしょうか。

 「絵はさっぱり分からん」と正直に言う人は結構います。「分からん」ということ自体が既に,感覚的なものではなく,言葉で説明されるようなものであることを暗示しています。多分,感覚的には「さっぱり感じない」状態だと思います。なのでせめて文学的な感動を味わいたいけど,それも「分からん」ということではないないかと思います。

 何を言いたいのか分かりにくい文章になってしまいましたが,デザイナーの意図を説明するなんてことをしても無意味ではないかと言うことです。絵から何かを感じた人は説明されても不快感は無くならないだろうし,無くなるような人にとっては,絵は大して重要な問題ではないのではないかと。