人工知能学会表紙絵続編

■公認妄想
 話題になった人口知能学会の表紙絵の続編が好評です。その一方で,意図を憶測して不快感を感じる人も相変わらずいます。そんな憶測で「お前は差別主義者だ」と言われてはたまったもんじゃないと以前の記事で述べました。

絵から読み取れるもの
http://d.hatena.ne.jp/shinzor/20140109/1389264870

 ただ,憶測が当たっている場合もあるかもしれません。例えば「女性を家庭に押し込めて所有するという欲望」を感じている場合は批判されるのでしょうか。そんなことはないですよね。バイオレンスやエロチックな映画を見て色々妄想しても犯罪にはなりません。実行しない限り。

 個人的趣味は全く自由で人にとやかく言われる筋合いは有りません。特に,頭の中の妄想に止まる限り他者への影響は有りません。さらに,妄想を表現することも許されます。絵画,映画,演劇,文学などでは,様々な、妄想の世界が展開していますが,何の問題も有りません。もちろん,趣味に合わない人が嫌悪感を表明することも自由です。人工知能学会誌表紙絵批判もその程度の話では無いかと思います。趣味の問題に過ぎません。

 ただし,趣味以上の積極的意味が妄想にはあります。イケナイ行為を実行しない為の安全弁,あるいはもっと積極的な昇華の面です。絵画,映画,演劇,文学は,社会的制約や技術的制約で実現できない行為の代償として行い,ストレスを発散する効果があるのではないでしょうか。人間は本能の侭には生きられないという制約がありますが,イケナイ本能など持っていないと自分にウソをつくのは無理があります。本能は認めた上で,社会との折り合いを付ける工夫が文化ではないかと思います。折り合いを付ける過程は矛盾や葛藤に満ちています。一筋縄では行かない複雑さがあります。だからこそ巧く昇華できれば芸術になるのだと思います。多くの人は,単にきれいなだけの絵や,美談なだけの小説には飽き足らないはずです。

 私には、理性では否定している差別感情があります。私だけではないはずです。人類の歴史を振り返ればどれ程の差別感情が渦巻いていたことか。差別感情がないという人は性欲がないという人同様に,嘘つきです。さもなければ,脳の機能に突然変異が起きたのでしょう。

 妄想表現が社会的に公認されたのが芸術ですが,まだ公認されていない場合は「キモイ」やら「差別主義者」と言われる可能性があります。「キモイ」ものや「差別的」でも押しつけや強制がない限り自由であって欲しいと思います。他者がイケナイ妄想を抱いていても,実行には移さない理性も持っているという信頼感,これがなければ違う文化,趣味の人と付き合えません。同質で閉鎖的な狭い社会でしか暮らせません。

 ここまでは,「女性を家庭に押し込めて所有するという欲望」を感じていても妄想なら許容されるべきだという主張ですが,だからといってイラストレーターの意図がそうだと言っているのではありません。実際に,イラストレーターは,そのような意図はないと既に釈明しています。本人がそうではないと言っているのに,「お前の本心は違うのだ」と批判することに怖さを感じるのですが,批判者が嫌悪感を感じる理由も分からないでは有りません。次にそれを推測してみます。

■嫌悪感
 工場の生産ラインにあるような純粋に機能的なロボットは,人間には出来ないあるいは人間がしたくない作業をやらせるものです。昔のたこ部屋の労働者が行っていたような作業です。この種のロボットを人間型にしてしまうと,労働者差別であると批判されるでしょうか。微妙なところですが,どちらかと言えば冗談とみなされ,批判は起こらないと思います。しかしですよ,メイドロボットと問題の構造は同じに見えます。その違いは何でしょうか。

 違いは作業そのものではなくて,それに付随するイメージです。たこ部屋はなくなりましたが,工場の人間の労働者はまだ多数存在します。一方,家庭内のメイドは殆ど絶滅しています。そのためメイドには昔ながらのイメージが残っています。仮に工場作業ロボットを差別的と言ってしまうと,たこ部屋批判ではなくて,現代の工場作業が卑しいという意味になりかねません。それこそ職業差別になってしまいます。その点,メイドロボットだと,その心配はあまりありません。しかし,昔ながらのメイドや女中はいないにしても,家事代行業は有りますし,家庭の主婦(主夫)も家事を行っています。彼(女)らが隷属状態に有るわけじゃ有りません。

 さらにメイドには性的なイメージが伴っています。大昔の搾取的繊維工場の女性労働者型ロボットを作れば,差別だと批判があるかも知れません。でも,現代の自動車工場の溶接ロボットを人間型にしても,冗談にしかなりません。家事代行業というとビジネスライクですが,メイド,女中というと余計なイメージが付帯してきます。古いメイドのイメージに差別を感じているだけなのですよ。

 つまり,不快感や嫌悪感を感じる人は,家事労働は隷属とは無縁に現代でも行われていることに思いが至らず,脳内の古いイメージをメイドロボットに投影しているのでしょう。

■私のメイドロボットイメージ

 一方,イラストレーターは絵の意図を次のように説明しています。

「擬人化」という表現技法を用いて、日常生活に人工知能が擬人化され溶け込む場面を描いた。このロボットはほうきや本と互換性があり、いままで人間が育んできた文化を置き換えるのではなく、いまの文化や生活を大切にしながら、そこに溶け込んでいく技術であって欲しいという願いを表現している。

 私の感じた印象もイラストレーターの意図に近いものです。日本は人間型ロボットの研究が進んでいるそうです。世界的には,一つの機能に特化した実用的なロボットの開発が主流であるのに,日本では少し趣が違います。人間型ロボットの開発目的にも,実用的な公式の理由が有ります。でも,それだけではないような気がするんですね。

 研究者でなくとも,お掃除ロボットを使っていると愛着を感じるそうです。また,仕事に愛着の有る人は,使う道具にも愛着を持ち,擬人化します。道具に名前を付けて相棒のように扱ったりします。アニミズム的感性が最新の技術にも反映されるようです。また,従来の伝統的なものに比喩することで,分かりやすく親しみを感じるということも有ります。モニターの一部を非表示にすることを「折りたたむ」とアナログな紙に例えて表現したりしますね。

 お掃除ロボットルンバでさえ人間に比喩するのですから,人工知能を備えたロボットなら尚更というかそれしかないでしょう。その際,ピカピカの宇宙人のような外観より,昭和の雰囲気を持つ女の子の方がなじみやすいわけです。そして,掃除のような「つまらない」仕事をこなすだけでなく,自立性を持ち哲学書も読むのです。

 批判者は,電源コードを隷属の象徴と捉えますが,作者はアナログな雰囲気を出したかったと述べています。確かに,哲学書を読めるくらいですから,自分で抜き差しして自由に移動できるはずです。でないと,一部屋しか掃除出来ません。ルンバだってそれに近いことをしています。

 とかなんとか,絵の解釈は何とでも出来ます。同じ絵でも文脈で印象が変わってしまいます。だからパロディが成り立つわけです。文脈抜きでの批判は,自分の文脈を勝手に押しつけているだけだと思います。