昭和15年6月11日 

 氏神猛島神社に於ける島原市主催の戦勝武運長久祈願祭。小生共応召者3名である。
 午前10時30分出席。祈願のあと、出征者3名の挨拶である。私も「本日は私達の為、わざわざ時間を割き祈願祭に出席くだされ有り難う御座いました。唯今より何等心配することなく征って来ます。征く以上、シナン支那)大陸に平和がくるまでは、シナン(死なん)覚悟で戦いそして頑張り、生きて生きて戦って来ます。本当に有り難う御座いました。」と挨拶。家族の居る所へ来ると姉が言った。「毅は変なこと言って居たね。然し3人の中では一番元気で力強く言って呉れた」と。注意かほめられたのか判らなかった。「平和がくる迄はどんなことがあろうとも戦い、戦い生きのびる。死んではそれ迄だ。勝利の日迄・平和の日迄、戦い抜くという気持ちです」と説明したところ、姉は「貴男の言うことは判っている」と手を握ってくれた。
 家に帰ると母は玄関にいたが、何か淋しそうに見えたので「お母さんも元気で長く生きて下さい。元気に出発しますので、笑って送って下さい」という。すると突然胸を張り力強く母は言った。「男として充分戦って来なさい。笑われるようなことなく、皆様の為に元気で征ってらっしゃい」と。
 午後2時発大牟田行升金汽船に乗船の為港に向かう。島原港への途中U田君の姉さんと会う。「本日の御出征御目出度う御座います。妹は当直でお見送り出来ず、今日は呉呉も宜敷しくお伝えして呉れとのことでした」と。
 それで小生も「昨夜家迄来て呉れましたので猛島神社へ一緒に行きました。戦地ではいつ死ぬか判りません。今日迄話無かったことにして、万一生きて帰った時こそ宜敷くお願い致します。会社では妹さんを見習い充分に働くことが出来、亦佐賀県警察でも同じく参考になり勤めて来ました。元気で征ったとお伝え下さい」と言った。
 港は見送り人で一杯だ。第三小学校の音楽隊が「あーあーあの声で」を奏して居る。我々が乗船すると軍歌は一入高く響きわたり、見送る人の合唱も一段と高くなる。我々応召兵も声の出る限り見送り人に応える。感激は最高となる。船が島陰に去っても、軍歌の吹奏は続いていた。
 大牟田港迄2時間。久留米駅迄40分。指定旅館の案内で宿につく。夕食後、M川叔父・姉妹他親戚2人の6人連れで夜の町へ出る。