水の輸送

■ 水のリサイクル

 原発事故処理水が安全なら、放出せずに再利用すればいいという意見が韓国内にあるという紹介です。紹介だけで、ツイート主の意見はわかりませんが、もし再利用できるなら、下水処理場の処理水も再利用すればよいので渇水対策にもなってグッドアイデアです。しかし、そんな意見を言う人はいません。そんなことすれば、水道料金は一桁高くなってしまいますからね。

 似た意見に砂漠地帯に水を輸送して緑地にするというのがあります。残念ながら、石油と違って水の輸出や輸入は行われていません。輸送費が高すぎるからです。それは知っていましたが、どの程度なのか知りませんでした。そこで、今回、極めて大雑把な計算をしてみました。

■ 水の輸送料

 輸送手段は、タンクローリーで、輸送距離100kmの場合を計算します。タンクローリー容量は最大で30tだそうです。福塚運送株式会社という会社のサイトに「タンクローリー輸送費用の標準運賃を使った算出方法」が載っていました。「標準運賃」とは令和2年国土交通省告示 第575号で定められています。これを使った、タンクローリー輸送費用の計算式は、次の通りです。

  距離程運賃×特殊車両割増 + 高速代(往復) + 荷積・取卸料 (弊社届出 標準的な作業で各8,000円)

 まず、距離程運賃を告示の表から調べると、効率的に運べそうな一番大きな、トレーラー20tクラスで100km当たり5万円程度です。

 特殊車両割増については、福塚運送株式会社では、タンクローリーは車両価格・メンテナンス費用・片道運行・輸送量の不安等の諸条件を勘案して3~4割増が妥当としています。

 高速代は、往復200kmなので、特大車の2万円程度とします。

 以上より、 

5万円×1.3+2万円+8千円=9万円

 タンクローリー容量30tなので 3000円/t

となりました。

 

■ 水は高きから低きに流れる

 一方、水道料金の平均は、20tで3000円程度なので、150円/t です。

つまり、100km輸送するだけで、水道料金の20倍必要になります。砂漠に輸出するなんて論外です。

 ただ、流すだけなら、それほど費用は掛かりません。ローマ水道玉川上水が作られたのはそういう理由です。用水路を作るのもお金のかかる大土木事業ですが。水という重量物を輸送する費用に比べれば大したことはないわけです。

 下水処理場原発も海に近い標高の低いところに立地していますので、処理水は河川や海に放出するのが最も安上がりです。わざわざ人間が上流の浄水場まで運ぶより、太陽エネルギーによる自然循環に任せればすみます。

 とはいえ、海水の淡水化施設がいくつか建設されています。当然ながら海の近くなので、淡水化だけでなく、輸送費が馬鹿高くなります。それでも建設されるのは、渇水対策や離島という水の価値が極めて高い特殊な状況だからでしょう。一般的にはなりそうもありません。

信用創造の又貸し説が生まれた訳(推測)

■ 信用創造の又貸し説

 信用創造の又貸し説なるものがあります。ウィキペディア信用創造から一度、削除されましたが、現在は復活しています。ただ「信用創造の名前に値しない」と貶されています。間違いというよりは、不要なルールを付け加えて、わざわざややこしくした説明ではないかと思いますが、次のような説明です。

預金準備率10%の時、

1. Wが現金1000円をA銀行に預ける。

(預金1000円、現金流通0円、銀行金庫現金1000円)

2. A銀行が準備預金100円を残し、Xに900円貸し出す。

(預金1000円、現金流通900円、銀行金庫現金100円)

3. Xが現金900円をB銀行に預ける。

(預金1900円、現金流通0円、銀行金庫現金1000円)

4. B銀行が準備預金90円を残し、Yに810円貸し出す。

(預金1900円、現金流通810円、銀行金庫現金190円)

5.  Yが現金810円をC銀行に預ける。

(預金2710円、現金流通0円、銀行金庫現金1000円)

 手順を見やすいように表に示しますが、預金が2710円まで増えています。これを続けると、10000円に近づきます。

■ 又貸し説のルール

 預金準備率10%の時、銀行は、現金が1000円あれば、預金は1万円まで作れます。実際には、すぐにでも作れるのですが、又貸し説では、貸出しと預け入れを繰り返す面倒な手順を行っています。そうなっているのは、次の二つのルールを勝手に課しているからだと思います。

ルール1:預金は現金を預けて作ることしかできない

ルール2:貸出は現金でしか行えない

 このルールに従えば、現金が1000円しか無ければ、1回の預け入れで1000円の預金しか作れませんので、預けられた現金を貸出し、再び預け入れることを繰り返し、1万円に近づけていくしかないわけです。

 しかし、奇妙ですよね。預金準備率10%なら、銀行は預け入れられた現金の10倍まで預金を作れるのです。これは、現金を預け入れなくても預金は作れるということではありませんか。疑問形にしましたが、実際に可能です。ルール1は存在しません。

 預金というと価値があるような気がしますが、それは口座主にとってであって、銀行にとっては負債ですから、負債を返せる見込みがあれば現時点で現金が無くても問題ありません。

 ルール2も存在しません。現実の銀行が多額の融資をするときは、現金ではなく預金で行っています。

 では、何故、存在しないルールを作ってまで、奇妙な説ができたのでしょうか。又貸し説は、結局のところ「現金÷預金準備率」の預金が出来るとしか言っていないのですが、それでは、何故出来るのかの説明になっていません。そこで、手順を繰り返すことで説明っぽい体裁にしたのでしょう。その際にルール1とルール2を加えていますが、これが一見もっともらしく見える理由をこのあとに推測してみました。

■預金の子供向け説明

 「銀行は、預けられた現金を別の人に貸出している」という子供向けの説明があります。預けられた現金額を記帳したのが預金通帳で、預金通帳を銀行に持っていけば現金が引き出せます。引き出せば、預金通帳の金額も減ります。ところが、預けた現金を銀行が別の人に貸し出しても通帳の金額は減りません。当たり前ですが、ここ大事です。この事実から、預金には現金の裏づけが不要であることがすぐ分かります。必要なのは、現金を引き出そうとしたときに、引き出せるという銀行の信用だけです。

 こどもの頃、他人様から預かったお金を別の人に貸すなんて、銀行は他人の褌で相撲をとる酷いところだと思った記憶があります。お客様から預かったものなら、金庫に大切に保管すべきで、手を付けるなんてもっての他だと。でも、金融業はそれが仕事なのですね。他人様のお金を流用しているのではなく、委託を受けて運用しているのでした。運用で得た利益の一部が利息としてお客に戻しているまっとうな仕事です。

 当然、預かったお金を運用しても、元の預金の金額は減りません。預金は預け主に対する銀行の負債ですので、預け主が引き出さないかぎり減りません。預かったというよりも、借りたというのが適切だと思います。借りたお金は自由に使えます。預金は借金の借用書であって、借りた現金とは別物です。なんとなく、預金が増えると銀行の資産が増えるような錯覚がないでしょうか。預金は銀行の負債なのにです。

 この錯覚がルール1やルール2に関係しているのではないでしょうか。資産である預金を自分で生み出して貸し出すなどという錬金術があるはずがないと思ってしまうのかもしれません。でも資産ではなく負債です。ちゃんと説明すれば次の通りです。

 銀行は、将来、現金が引き出せるという借り手にとっての債権を渡します。この債権は銀行にとっては債務です。その代わりに相手は、将来、現金を払うという借用書を銀行に入れます。預金は銀行の債務であり、相手の債権です。借用書は銀行の債権であり相手の債務です。これを交換して手続き完了です。この時に、借用書と預金が「創造」されますが、それは一方の債権であり、他方の債務なので差し引きゼロです。錬金術は何処にも有りません。

 「信用創造」という名称がミスリーディングなのかもしれません。何か価値が創造されるような印象がありますが、銀行と融資などを受ける者との間で、約束を交わしただけです。創造されたのは、約束の証書に過ぎません。

■ 貸金庫業から金融業へ

 銀行の子供向け説明は、銀行の歴史に係わっていそうです。銀行は貸し金庫業が起源と言われています。お客から保管料を取って貴金属の「金」を金庫に保管する仕事です。その際に預かり証を発行していました。当然、預かった「金」は厳重に保管し、勝手に売ったりできません。ところが、それをやっても問題無いことが経験的にわかっちゃったんですね。「金」をすぐ受け取りに来るものは少なく、その間に「金」を投資して利益を上げれば、預け主に返してもおつりが出ます。預け主の代わりに運用したわけです。さらに、預かり証が通貨として使われだすと、預かってもいない「金」の預かり証を額面以上の価格で貸すことも始めました。通貨として使われると「金」を受け取りにくる者はますます少なくなりました。結局、金庫にある「金」の数倍の預かり証を発行(貸)しても破綻しないことが分かってきました。一見、詐欺めいていますが、額面以上の価格で借りる者が返済できるかを見極める目があれば問題ありませんでした。これは現在の銀行の融資の原形です。

 又貸し説のルールは、貸金庫業から金融業への過渡期を感じさせますね。貸金庫業としては、金庫の中の金と預かり証は対応していなければなりませんが、金融業ではその必要はありません。現在の銀行預金も金庫の中の現金とは対応していません。にもかかわらず、貸金庫業の頃の感覚が残っているのでしょう。

無から有は生まれない(信用創造は誤解を招く名称)

■ 誤解

 銀行が融資するときは、現金を貸すのではなく、融資先の事業者名義の預金を作ります。この預金には、裏づけとなる現金が必要という誤解を見かけました。銀行は預かったお金を貸しているという素朴な誤解の亜種かと思います。上のVlgrisさんのツイートはこの誤解の原因を突いていると思いました。

 信用創造という言葉は、無から有を産みだしているかのような印象を与えます。いうまでもなく、無から有は生まれません。Vlgrisさんが言われているように「正と負の同時発生」、つまり債務と債権が発生しているだけなんですね。銀行融資ではこれが二重に行われているという説明をこれからしますが、その前に、先ず、単純な事実を確認しておきます。

■単純な事実 銀行は相当する現金を持たずに融資できる

 銀行に尋ねれば、手っ取り早いですが、観測すれば尋ねなくても分かる事実です。

 もし、裏づけの現金を銀行はもっていなければならないのなら、流通している現金は、預貯金総額より多く必要です。しかし、日銀や銀行協会のデータを確認すると、通貨流通量130兆円に対し、預貯金総額1,000兆円です。預金に相当する現金を持つことは不可能です。

 また、預金等の一定比率(準備率)以上の金額を中央銀行日本銀行)に預け入れる準備預金制度があります。この準備預金が銀行の保有する現金に相当するので、預貯金以上必要ということになってしまいます。実際には1%程度なので、制度的にも預金に相当する現金を持つ必要はありません。

 なお、上記の事実に対して、現金でなくても、融資した預金には担保という裏づけがあるという少々後退した主張もあります。この主張は、裏づけを持つ主体を間違えています。担保は、融資を返済するという事業者の約束の裏づけであり、預金から現金を引き出せるという銀行の約束の裏づけではありません。担保とは、与信に基づく融資というよりは、先払いで担保を買ったようなものです。その先払いを現金ではなく預金で支払っているわけです。その預金の裏づけに相手の資産である担保がなるはずがありません。相手に対する約束履行の裏づけに相手の資産を使うようなものです。これは、債務と債権が二重になっているために混乱したのでしょう。

 さらに、銀行が預金額に相当する現金を持っているならば、引き出し不能になる取り付け騒ぎは起きようがありません。現実には、引き出すに十分な現金が銀行にないかもしれないと預金者が疑うので取付騒ぎが起こります。確かに、一斉に引き出されるだけの現金は持っていないので、破綻してしまいます。

■ 正と負の同時発生

 売買は、単に、商品とお金の交換であり何ら新しいものが産みだされるわけではありません。一方は商品が増え、お金が減り、差し引きゼロです。他方も商品が減り、お金が増え同様に差し引きゼロです。

 借金の場合は、一方はお金が増えるだけのように見えますが、債務がのこります。債務は将来お金を払う約束ですので、その時にお金が減り、差し引きゼロになります。貸した側は、最初にお金が減り、後で増えて差し引きゼロです。この約束の証書が借用書で、差し引きゼロになった時点、つまり返済した時に消滅します。

 本題の預金による銀行融資は、次の通りです。

 銀行は将来、現金を預金から引き出せるという約束をし、その証書が預金通帳です。事業者も、将来現金を返済するという約束をし、その証書が融資の借用書です。それぞれ、自分の証書を相手に渡し、相手の証書を受け取るので、差し引きゼロです。債務と債権(マイナスとプラス)の同時発生が、二重に起こっています。

 更に、将来、融資が返済されれば借用書は消滅し、預金から現金が引き出されれば預金は消滅します。実際には預金の方は、なかなか消滅せず、預金のままで別の取り引きにお金のように使われます。そのため、預金は現金と同等に扱われ、現金通貨や預金通貨と呼ばれます。この二つを合わせてM1(マネー1)と言うとマネーサプライの解説には書いてあります。

 以上の説明では「現金を渡すという約束」と書きましたが、実際には殆ど現金化されることなく、正に預金通貨として流通しています。証書の約束が果たされないかぎり、通貨として市場で流通し続けます。

 現金もこの証書の一種、つまり借用書ですが、誰が何を約束しているのでしょうか。金本位制の時代は、政府が金との交換を約束していました。現在の管理通貨制度では、そのあたりが不明確ですが、MMTは、納税免除の約束と説明しています。これはそのように解釈すれば辻褄はあうという後付けの説明であり、実際に明確な約束はないので、スッキリしません。

 説明理論がどうであれ、現実には、商品等と交換できる約束があると信じて国民は現金を使っています。誰を信じているかというと、とりあえずは取引相手ですが、つまるところ発行者である政府日銀なのでしょう。現金も何かを約束した証書に過ぎないのですが、あまりに信用されているので商品等と同じ実体価値とみなされています。今では、証書は紙切れですらなく単なる電子データ記録になっています。ここまでくると、約束の記録に過ぎないと分かり安くなります。政府日銀ほどではありませんが、国民は銀行預金も現金と同等に信用して使っていますので、実体価値があるかのように誤解してしまったのでしょう。誰だって、借用書を書くことぐらいできます。ただ、銀行ほど信用がないので、受け取ってもらえないかもしれませんし、通貨になることもないだけです。

 以上が無から有が生まれるという信用創造の誤解の原因だと思います。現金も預金も将来の実体価値と交換を約束する証書でその時点では何も生み出していないのですが。

■ 有が生まれるとき

 では、商品やサービスなどの実体価値はどこで生み出されるのでしょうか。いうまでもなく、融資が行われたあとの生産活動によってです。融資は自己資金がなくても生産活動を可能とし、経済を成長させる意義があると言えます。融資は投資であり投機ではありません。投資とは、投資対象の成長に期待して出資することで、それに対して投機とは、価格変動による売却益を得るものです。益の裏側で誰かが同額の損失をするゼロサムゲームです。生産活動によって投資対象は成長しますが、投機では生産活動は行われません。

 そして、生産活動を促す融資の目的から考えると、担保は目的が達成できなかった場合の銀行の保険に過ぎません。銀行が担保を手に入れたときには、事業者は何も生み出しておらず、融資は失敗しているわけです。

確率が直観に反する原因らしきもの

 二人きょうだいの問題も、モンティホール問題も素朴な直観に反します。そして、どちらも条件付確率の問題です。ただ、モンティホール問題の場合は、司会者が必ず外れドアを開けます。つまり、条件の確率は1なので、事前確率と条件付き確率は同じになります。それを示したのが次の表です。上の表は、司会者が必ず外れドアを開ける場合で、下の表は当てずっぽうに開ける場合、つまり当たりドアを開けてしまうこともある場合です。

 この2つの場合の違いと似た関係が二人きょうだいの問題の「少なくとも一人は女の子」であると確認する二つの方法の違いにもあります。きょうだいの一人を確認して女の子であれば、「少なくとも一人は女の子である」といえるだけで、それ以上のことはいえません。それに対して、二人を確認すれば、「少なくとも一人は女の子である」という以上の「二人とも女の子である」や「女の子と男の子である」とも言えます。つまり、二人確認した場合は、一部の情報しか伝えていないわけです。

 司会者やきょうだいのお母さんが伝える情報を調整していて、さらに回答者も、調整していることを知っている必要があります。このような人為的な調整は、現実的な世界では普通はあまりありません。このような場合の事後確率は直観に反したものになるのではないでしょうか。それに対して、司会者が当てずっぽうにドアを開ける場合(風でドアが開いてしまうという偶然の状況と同じです。)や、きょうだいの一人が女の子であるとたまたま知った場合は、直観に合う確率になります。このような状況は、現実に経験することが多いのではないでしょうか。

 直観はヒューリスティックに磨かれるものなので、経験がある状況では結構、当たりますが、未経験の状況では外れます。感覚の話なので、断定はできませんが、確率の問題が直観に反することが多いのは、このような原因なのかもしれません。

「少なくとも一人は女の子」を確認する二つの方法

 前記事の続きです。今までの問題と殆ど同じですが、少し表現を変えてみた次の問題を考えてみてください。簡単です。

 問題A

 少なくとも一人は女の子である二人きょぅだいのうち、二人とも女の子であるきょうだいの確率はいくつでしょうか。なお、男と女の確率は同じとします。

 問題Aは、明確にペア(二人きょうだい)に関する条件付確率を尋ねています。殆どの人が1/3と答えると思います。

 では、次の問題は、どうでしょうか。

 問題B

 二人きょうだいのどちらかの子が女の子であった場合、もう一人も女の子である確率はいくつでしょうか。なお、男と女の確率は同じとします。

 問題Bは、明確に子(個人)に関する条件付確率を尋ねています。1/2ですね。

この違いを下図に示します。

 では、前記事の【追記】で触れた次の問題Cは、どちらを尋ねているのでしょうか。

問題C

 隣に家族が越してきました。その家族のお母さんが挨拶にきて子供が二人いて、少なくとも一人は女の子であると言いました。もう一人も女の子である確率はいくつでしょうか。

 どちらとも解釈できる曖昧さがありますが、【追記】で述べたように、お母さんは一組の2人きょうだいに対応して一人いますので、お母さんの発言は、ペア(きょうだい)についてのものだと解釈するのが妥当だと思います。この状況が400回あれば、姉妹、姉弟、兄妹、兄弟の兄弟のお母さんである状況はそれぞれ100回ずつで、少なくとも一人が女の子のきょうだいのお母さんである状況は300回です。そのうち二人とも女の子は100回です。

 しかし、前記事のコイン投げの問題2では判断が付きません。

問題2

 見分けのつかない2枚のコインがあります。そのコインには表・裏があります。この2枚のコインを、見えないように両手でよく振って、布の下に2枚とも見えないように置きます。

 別の人に布の下を確認してもらったら、「少なくとも1枚は表である」といいました。

 その後、布をめくったとき、2枚とも表を向いている確率はいくつでしょうか?

 前記事の【追記】で記載したように、コイン投げを400回行えば、〇〇、〇×、×〇、××が100回ずつになります。別の人が2枚のコインを見たのなら、「少なくとも1枚は表である」と言えるのは300回です。しかし、1枚だけ見たのなら、〇×と×〇では50回しか言えませんので、200回しか言えません。この違いが曖昧なので混乱します。

 ただ、現実的な場面を考えれば、「少なくとも一人は女の子です」と、知っていることを出し惜しみするお母さんは相当な変人です。「上の子は女の子でピアノを習っています」のような会話が普通です。この場合は、二人とも女の子の確率は1/2です。直観的に、殆どの人が1/2と答えるのは、このようなことも関係しているのかもしれません。

曖昧な確率の問題

bodoge.org

問題1

見分けのつかない2枚のコインがあります。そのコインには表・裏があります。この2枚のコインを、見えないように両手でよく振って、布の下に2枚とも見えないように置きます。ここから1枚だけコインを取り出したところ、そのコインは表を向いていました。その後、布をめくったとき、布の下にあるもう1枚のコインが表を向いている確率はいくつでしょうか?

 

  上記の問題の答えは、1/3となっていますが、1/2です。過去に間違えた解説が多いという記事を書きましたが、その1例です。

shinzor.hatenablog.com

 この問題の場合は、次のように考えるべきです。

表を〇 裏を×とすると、2枚のコインA・Bの出方は以下の4通りで、総て同じ確率です。

  A〇B〇 A〇B× A×B〇 A×B×

 次に、この4通りから1枚のコインを取り出した時の可能性は以下の8通りで、同じ確率です。

  A〇B〇からA〇を取り出す

  A〇B〇からB〇を取り出す

  A〇B×からA〇を取り出す

  A〇B×からB×を取り出す

  A×B〇からA×を取り出す

  A×B〇からB〇を取り出す

  A×B×からA×を取り出す

  A×B×からB×を取り出す

 従って、表のコインを取り出した時に、もう1枚も表である確率は2/4=1/2です。

 では、1/3になるのはどのような場合でしょうか。おそらく、次の問題のような場合です。

 

問題2

見分けのつかない2枚のコインがあります。そのコインには表・裏があります。この2枚のコインを、見えないように両手でよく振って、布の下に2枚とも見えないように置きます。

別の人に布の下を確認してもらったら、「少なくとも1枚は表である」といいました。

その後、布をめくったとき、2枚とも表を向いている確率はいくつでしょうか?

 

 この場合は、2枚のコインA・Bの出方は以下の4通りで、同じ確率です。

  A〇B〇 A〇B× A×B〇 A×B×

 このうち、少なくとも1枚が表であるのは3通りで、2枚とも表は1通りです。従って、少なくとも1枚が表である時に、2枚とも表である確率は1/3です。

 

 と、このように、今までは、考えていました。しかし、疑念がでてきました。この問題は、曖昧なところがあるんです。別の人はどのようにして「少なくとも1枚は表である」と確認したのでしょうか。例えば、次の問題3の確認方法はどうでしょうか。

問題3

見分けのつかない2枚のコインがあります。そのコインには表・裏があります。この2枚のコインを、見えないように両手でよく振って、布の下に2枚とも見えないように置きます。別の人に1枚だけコインを取り出して確認してもらい向きを変えずに布の下に戻してもらいました。その人は「表だったので、少なくとも1枚は表だ」といいました。

その後、布をめくったとき、2枚とも表を向いている確率はいくつでしょうか?

 これは、実質的に問題1と同じなので、1/2でしょう。少なくとも1枚は表と確認できて、なおかつもう1枚も表である確率が1/3になるような確認方法はあるのでしょうか。

 少し、設定は違いますが、次はどうでしょうか。

問題4

隣に家族が越してきました。その家族のお母さんが挨拶にきて子供が二人いると言いました。その夜に、隣の家から女の子の声が聞こえてきたので、少なくとも一人は女の子だとわかりました。もう一人も女の子である確率はいくつでしょうか?

 この問題で声を聞いた女の子の考えられる可能性は次の4通りです。

  姉妹の姉、姉妹の妹、姉弟の姉、兄妹の妹

 もう一人も女の子であるケースは2通りなので、その確率は2/4=1/2です。残念ながら1/3になりませんでした。

 そこで、答えが1/3になるように無理やり考えたのが、次の問題です。

問題5

表裏共赤色のカードが1枚、表が赤で裏が青のカードが2枚、表裏共青のカードが1枚あります。このうち表裏共青のカードだけ厚くなっています。それを袋に入れて、1枚のカードを触ったら薄いカードでした。そのカードが両面赤である確率はいくつでしょうか?

 この場合は、明らかに4つの可能性が3つに絞られていて、そのうちの一つが両面赤ですので、1/3の確率になります。一方、問題3は、8つの可能性が4つに絞られ、そのうちの2つが両方表ですので、1/2の確率になります。問題2は、少なくとも1枚は表であることをどのようにして知ったのか書いてありませんので答えは分からないとしか言えないのではないでしょうか。

 このことは、多数回試行で考えると、分かり安くなります。問題1の2枚のコイン投げを400回行うと。A〇B〇、A〇B×、A×B〇、A×B×が100回ずつになります。2枚のうち1枚が〇になるのは、A〇B〇では、100回すべてで、A〇B×とA×B〇では、半分の50回で、A×B×では、0回です。従って、1枚が表だった場合にもう1枚も表である確率は、100/200=1/2です。

 問題5の場合は、カードを400回選ぶと、赤赤100回、赤青200回、青青100回になります。このうち、薄いカードは、赤赤と赤青の300回なので、薄いカードのうち赤赤の確率は、100/300=1/3です。

 つまり、「少なくとも1枚(一人)は表(赤、女の子)である。」だけでは、設定が曖昧で答えは分からないということだと思います。どのようにしてその情報を知ったのかで結果が変わります。もう少し具体的に言えば、コインAとBのセット(きょうだい、カード)についての情報なのか、1枚のコインの表裏(一人の子供の性別、カードの1面の色)についての情報なのかによります。確率の問題として考えると、その違いを意識しにくいので混乱するのだと思います。この違いを模式的に表したのが下図です。具体的な多数回試行で数え上げて考えようとすれば、違いを意識せざるを得ません。

 ところで、きょうだいの問題で答えが1/3になるのは、お母さんが「2人の子供がいて、少なくとも一人は女の子です。」と言った場合となっています。でも、この場合、具体的な多数回試行はどのようにするのでしょうか。私にはわかりません。なので、この問題の場合はまだ疑念が残っています。

 

【追記】

 最後の疑念は、多分解消しました。

お母さんは一組の2人きょうだいに対応して一人なので、模式図の1/3になる場合に当たるかと思います。

 多数回試行では、姉妹、姉弟、兄妹、兄弟のお母さんが100人ずついます。そのうち「少なくとも一人は女の子」と言うお母さんは300人なので、もう一人も女の子の確率は1/3です。

 問題2も「別の人」をお母さんの立場にすれば、1/3になります。具体的には、コインを2枚とも確認するということになります。ただ、問題にはそこまで書いてありません。

 

化け物

 私の考えでは差別にはなりません。外見への率直な感想を述べているだけで、LGBT活動家だから、どうのこうのとは言ってませんからね。ただ、外見を貶すのは、侮辱罪になる可能性はあります。引用リツイートには「化け物コスプレ」という酷いのもあって、失礼ですね。ただ、ドラァグ・クイーンは女性のパロディ芸なので、こういう反応も面白がって訴えられることはないとは思いますが。

 ところで、私自身がキモいと感じるものは結構変化してきました。見慣れないものは頭が付いていかないので、「なんだこりゃ!」と驚くのですが、そのうち慣れます。こどもの頃は、女性のメイクがキモかったです。特に、欧米人の濃いメイクは「化け物」に見えましたし、和モノでも舞妓さんの白塗りは不気味でした。舞台女優の化粧のアップも滑稽でした。それも、次第になんとも感じなくなりました。未だに慣れないのは、化粧ではなく、不幸にも変形してしまった素顔です。不幸とは病気や火傷、外傷などです。このような人を見ると、危害を加えられるわけでもないのに、直視できませんし、逃げたくなります。実際に行動すれば差別になるのでしませんが、感情はどうにもなりません。慣れていないのは、単に、経験が少ないだけなのか、理由があるのかよくわかりません。

 肉体的な異形には恐怖を感じますが、化粧の異形は滑稽に感じることが多いのは何故なんでしょうか。深刻度の違いかもしれません。今では無くなりましたが、黒塗りに腰蓑、鼻輪をつけ「南洋の土人」に扮するのは昔のお笑いでよくあり、なぜか面白がっていました。面白いと感じた理由を考え出すと興味深いのですが、ここでは省略します。ヒョットコ、オカメも現役の滑稽ではなくなりました。外見の滑稽さは飽きてしまいますし、面白がると「差別」と批判されるので「生き物」から「記録」になってしまいました。

 しかしですよ、鼻を飾る文化の人々はどう思っているんでしょうか。既に、そういう文化は廃れてしまったものが多いとはいえ、まだ残っているはずです。自分たちの文化が笑われるのは不快でしょうが、存在自体を否定されているように感じないでしょうか。さらに、ここに来て、伝統文化だけでなく、新興文化にも鼻飾りが出現して事態は複雑になっています。鼻ピアスです。ひと昔前ならお笑いであった鼻ピアスが最新ファッションとして登場しています。当初は戸惑いのあった周囲の反応も、慣れてしまって、TVなどの出演者は特に反応しません。とはいえ、視聴者レベルでは、滑稽だの、不快だのという反応はまだ残っています。

 現代では、自由が重んじられますが、文化は自由を制限する面があります。望ましい外見、礼を失しない外見というものがあり、そうでないものを排除します。一方で文化の多様性を認め、排除しないようにもなっていますが、同じ集団内では統一されています。やはり、統一が無いと、心理的に不安になるのでしょうか。実際上の不都合が無ければ、どのような格好をするのも自由のはずですが、それほど単純ではないようです。格好そのものに意味はなくても、他者と同じ格好をしたり、他者とは違う目立つ格好をすることには、確かに意味があります。