国家財政と家計の違いを考えてみた(その4自分が書いた借用書を貯めこんで喜ぶ財務省)

  • 自分が書いた借用書は破りすてる

 借用書を借主に示せばお金が得られます。なので、貸主以外にとって借用書は価値があります。しかし、当たり前ですが、借主が持っていても価値はありません。普通、借用書が借主の元に戻ってくれば、破り捨てられます。昔のドラマでにあるシーンです。

  • 預金通帳は銀行の借用書

 同様に、通帳を銀行に示せばお金を得られますので、預金通帳は銀行が借主である借用書みたいなものです。お金を預けた口座主が貸主です。銀行預金は他の口座に振替や振込ができますので、通貨としても認められています。一々、現金をおろして、他の口座に預けないでよく、預金のまま流通しますからね。

  • 借用書の裏付け

 銀行預金は、現金を預けるほかに、融資によっても生まれます。融資先の借用書と銀行の借用書である預金を交換するわけで、信用創造と言われます。つまり、預金の裏付けには、口座主が預けた現金である場合と融資先が書いた借用書の二種類があることになります。信用創造と言っても、無制限に生み出されるわけではなく、融資先の返済能力に制限されます。それはそうでしょう。

・戻ってきた借用書は消滅する

 さて、非現実的な思考実験みたいな問です。預金は通貨と認められているので、融資先が融資を受けた直後に、その融資された預金で返済したらどうなるでしょうか。答えは、その預金は消滅するです。意味が分かりにくいと思いますが、これは融資先が預金から現金を引き出して、その現金を返済することと同じです。預金残高はゼロになって消滅しています。冒頭の借用書が借主に戻ってくれば、借用書が無意味になったのと同じです。預金は銀行の借用書です。この思考実験は、結局、融資を受けなかっただけのことですが。

  • 政府日銀に戻った現金は消滅する

 さてさて、現金は政府日銀の借用書です。兌換紙幣時代なら、金と交換できましたし、現在では、納税したと認められます。だから信じられないかもしれませんが、奇をてらった言い方をすれば、政府日銀に戻ってきたお金は消滅します。支出するときは新しく発行すれば済みます。とはいえ無制限に発行できないのは銀行預金と同じです。融資先の返済能力に相当するのが、民間の経済力です。

  • 銀行や政府日銀のお仕事

 つまり、銀行は、融資によって、融資先が利益を上げるようにするのが仕事です。その結果、負債である預金は返済と相殺して消滅しますが、利子の分だけ儲かります。また、融資先も成長します。同様に、政府日銀は、お金の発行によって、国民が利益を上げるようにするのが仕事です。その結果、負債であるお金は納税などで政府に戻ってきて消滅しますが、経済発展によって納税額は、利子が付くように増えます。また国民も経済成長によって豊かになります。その過程でお金は発行(支出)され増え続けます。

  • 自分で発行したものの収支は、基本「赤字」

 銀行が発行した通貨である預金も、政府日銀が発行したお金も、自分が持っていても無意味なものです。融資先や国民の取引の交換手段として使われて意味があります。これまた思考実験で、銀行の収支を自分が発行した預金で考えると基本的に「赤字」になります。「支出」は新しく増えた預金額で、「収入」は、引き出された金額なのですからそうなります。「収入」とは、預金通帳から消された金額であり、一昔前の銀行の窓口で現金引き下ろす時に提出した書類みたいなものです。ある期間に限れば「黒字」もあり得ますが、別に銀行にとって嬉しくもないでしょう。トータルで見れば、自分で発行した以上の額は戻ってくるはずがありません。

 財務省は、預金引き出しの申請書や自分が書いた借用書を集めて「黒字」なったと喜んでいる変わり者です。国民を豊かにする気はないようです。

国家財政と家計の違いを考えてみた (その3 政府は徴収した税金を支出しているのか)

 家計では、収入のお金を支出します。支出が収入を上回れば赤字となり、借金せざるをえません。借金が増えれば、そのうちに貸してくれるところが無くなり、破産します。財務省は国家財政でも同じことが起きると言います。しかし、政府日銀はお金を発行できるので、直感的に財務省の主張はおかしいと感じます。とはいえ、野放図にお金を発行すれば経済が滅茶苦茶になりそうではあります。

 

 政府は税金を集めて、それを支出しているように見えますが、集めるお金は政府日銀が発行したものです。お金の発行は、どこでなされているのでしょうか。財務省の主張では、そこのところがぼかされています。これについて、基礎の基礎から考えてみました。もっとも、私には、応用の知識は全くないので、基礎的なところを考えるしかないのですが。

■ お金とか何?

 先ず、お金がどういうものか考えます。お金の発祥は、次のように説明されます。

 漁師は魚が釣れたら5匹渡すという証文を書いて、鍛冶屋から釣り針1本を受け取った。釣り針を得た漁師は魚を20匹釣り、5匹を鍛冶屋に渡して証文を取り戻し廃棄した。ある時、鍛冶屋はこの証文を農民が持っている野菜と交換した。このようにして証文が流通し、お金となった。(諸説あり)

 証文とは、将来何らかの義務を履行するという約束を記した書類です。証文自体は紙切れに過ぎません。将来約束が履行されて初めて価値が発生します。証文の発行者は約束を果たす義務があるので、債務を負っていることになります。発行者に社会的信用があれば証文は、様々なものと交換可能となって、お金として流通します。兌換紙幣は金と交換するというのが最初の約束でした。では、不換紙幣は何と交換できるのでしょうか。納税証明と交換できるというのが一つの説です。お金の無い時代の税は、役務や年貢の類でした。これは権力者が国民に課した義務です。役務を果たし、あるいは年貢を納めたものには、二重取りを防ぐため納税証明書のようなものが渡されました。これがお金の起源になったという説もあるそうです。

■借用書は返済すれば破り捨てる

 ここから少しややこしくなりますが、納税証明書そのものがお金になったのではなく、納税証明書と交換すると約束した証文がお金です。これはつまり、役務や年貢ではなくお金で税を払えるということに他なりません。お金を受け取った政府はお金(納税証明書引換券)が再び使われないように廃棄します。借金を返済して借用書を取り戻した人が破り捨てるのと同じです。破り捨てずに借用書が誰かの手に渡ったら再び借金を返さなくてはなりませんから当然です。

 

 ここが勘違いしやすいところだと思います。権力者は徴収した年貢を廃棄しませんが、お金(納税証明書引換券)は廃棄して構いません。次の年貢徴収の時に使いまわしてもよいですが、盗まれないよう保存管理するより、必要な時に発行した方が簡単です。お金は発行者である権力者にとっては、債務であり、価値のあるものではありません。納税証明書引換券が通貨となれば、民間で取引に利用され流通しますが、政府に回収されれば廃棄されるものです。

■役務や年貢の徴収が、税金の徴収と支出に分かれた

 とはいえ、政府は徴収した税金を廃棄せずに支出しているように見えます。しかし、そのように見えているだけではないでしょうか。権力者には、お金の無い時代から、役務や年貢を徴収する権力があり、お金は必要なかったのですからね。後に、納税証明書(と交換を約束した証書)としてのお金が出来ると、それを支出することで役務や物品を得ることもできます。こうなると、税としてお金を徴収してそれを支出しているような順序に見えますが、役務や物品を直接、徴収することと結果は同じです。つまり、役務や年貢の徴収という一つの行為が、税の徴収と役務や年貢を得るための支出という行為に分かれたと言えます。言い換えれば、お金が発生した以降の政府の徴税は、支出まで行って完結するということです。それはそうでしょう。自分で書いた証文を持っていても仕方ありません。財政が黒字になったと喜ぶのは財務省ぐらいです。

■ 何故、二段階に分かれたのか

 二段階の徴税と支出に分かれたのは、民間で納税証明書引換券が取引に使われる通貨になったからではないでしょうか。実際には、民間発行の通貨も存在しており、それより信頼できる通貨として置き換わったのかもしれません。今でも、民間発行通貨は、多く使われていて、銀行預金がその代表です。

 

 前述のとおり、納税証明書引換券は政府に回収されれば消滅します。ところが、回収されるまでに、民間の取引で通貨として使用されるようになると、その流通量によって取引が円滑になったり滞ったりすることが分かってきます。世の中の景気に影響するわけで、ひいては税収にも響いてきます。

 

 であれば、経済活動のために適正量の通貨を発行することが政府の重要な役目になります。いわゆる財政政策です。支出の内容もさることながら、支出額(通貨供給量)が問題になります。ケインズが言ったように「穴を掘って埋めるだけでもよい」わけです。一方、徴税とは通貨の回収であり、もし支出と同額であれば、通貨の流通量の調整はできません。つまり、政府の会計は、経済状況によって赤字にしたり、黒字にしたりして通貨の流通量を調整しないといけないということです。黒字であればよい家計とは全く違うのですね。当然、徴税と支出は分かれることになりますが、徴税した税金を支出しているわけでないということです。

 

 しつこく繰り返しますが、財政黒字を喜ぶのは財務省ぐらいです。

国家財政と家計の違いを考えてみた(その2政府が支出せず、お金を貯めこみ黒字が増えるとどうなる)

 その1では、国債の借り換えを考えました。今回は、国家財政と家計は、全然違うよねという話です。特に「赤字」についてです。

 

■赤字と債務超過

 先ず、一般的な会計の基本知識を復習します。経営の本に書いてあるようなことです。赤字とはある期間の損益計算書において、費用(原価など)が収益(売上など)を上回る額です。マイナスの利益ですね。それに対して債務超過とはある時点の貸借対照表において、負債が純資産を上回った状態です。毎年の赤字が累積していくと負債が増えていき、純資産を全て売却しても負債の返済ができない状態になると債務超過です。

 

■赤字は日常茶飯事で、債務超過でも破綻するとは限らない

 家計では、費用と支出と言わずに、支出と収入ということが多いと思います。収入より支出が多いと借金(債務)で補わざるをえません。その借金が蓄積して家屋敷を売り払っても返済できなくなるのが債務超過と言えます。ただ、債務超過になっても破産するとは限りません。財産のない若者が借金すれば、即、債務超過ですが、お金を貸してくれる者がいれば何とかなります。お金を貸す理由には、「出世払いでいいよ」という銀行視点や、「資産家の親(や退職金)を食い物にできるぞ」という闇金視点などいろいろです。闇金も見放すと、万事休すで破産です。

 

■家庭、企業、銀行、国家財政の会計

 家庭では、働き手が働き、家庭の外から収入を得たり、借金したりしたお金を、家族の衣食住その他のために家庭の外に支出します。そのお金の出入りが家計簿です。

 企業も、生産活動を行い、企業の外から収益を上げます。その収益の一部を生産活動のために企業の外に支出しますが、借金が家庭より大きくなります。

 家庭や企業と銀行は少し違います。自らは生産活動を行わず、収益をあげそうな他の企業を見つけて貸し付け、利子付で返済をうけます。貸し出すお金は信用創造による預金です。預金には現金の裏付けは、ありませんが、貸出先が利子を付けて返済してくれるだろうという見込みがあります。出世払いみたいなものです。

 政府はさらに違います。自ら生産活動を行わず収益もありませんし、銀行のような貸付による利子収益もありません。国民から集めたお金を国民に配っているだけといえます。配ることを支出と言いますが、企業の支出とは全く様相が違います。企業は支出によって、原料や設備などの自分が使うものを得ますが、政府は社会資本などの国民が使うもののために支出します。これは、国民から集めた税金を国民に戻していることになります。だから税金は返済されません。ところが、借金である国債は、返済されます。借金して自分の服を買えば、返済するのは当然ですが、お金を預かって、預かった相手のために服を買っても、なぜか返済しなければならないのが国債です。何故でしょうか。

 以上のように財政と企業会計や家計はずいぶん違います。とても、同列に考えられません。とはいえ、お金を発行できる政府(正確には日銀を含めた統合政府)は、借金はいくらでも返せ、赤字は問題にならないというのは、少し乱暴に感じます。お金を発行できるなら、そもそも税金の徴収や借金の必要はないのですからね。お金の発行については別の回で考えることにして、今回は、財政の赤字を考えます。

 

■お金分配クラブ

 企業や家庭は、企業や家庭の外部から収入を得て、外部に支出します。それとは少しちがう架空のクラブを考えてみます。会員から会費を集めて、会員に再分配するだけの閉じたクラブです。無意味なクラブに思えますが、とりあえず架空なので話を進めます。このクラブの幹事が集めた会費以上のお金を分配するには、余裕のある会員から借金をするしかありません。さて、この借金は返せなくなることがあるでしょうか。

 表1を見ればわかるように幹事は必要なだけ会費を集めれば必ず返せます。段階5のところで会費を集め、段階6で返済しています。このクラブは内部でお金をぐるぐる回しているだけです。お金を会員以外に支出するか、会員以外から借金しない限り返済不能はあり得ません。とはいえ、1200以上の借金はできません。一方、家計は、家庭の外の勤務先からの給料や銀行からの借金を、八百屋で人参を買うために使うなど家庭の外に支出します。だから、返済不能はあり得ます。家計とクラブの大きな違いです。

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■国家財政

 海外との収支を無視すれば、政府は、国の中でお金をぐるぐる回しているだけですので、国家財政は家計よりもクラブ会計に似ています。政府は、国民のお金をただ集めて、国民のために使用(配分)しているだけです。労働の対価として国民から収入を得て、それを政府のために支出しているわけではありません。一部、役人が使う庁舎のような公用財産取得のための支出もありますが、ほとんどが国民の使う社会インフラなどの公共財産整備に支出されますからね。

 

■単なるぐるぐる回しから経済へ

 クラブでお金をぐるぐる回しているだけなら何の意味もありません。しかし、お金は使うことで増やせます。使うとは、実体的な物品や労働と交換することです。交換することで、利用されない資源が加工できる者へ移動して製品が製造されます。製品の価格は元の原料、設備の損耗費用、投入労働の価格より大きくなります。もし、通貨量が変わらないならば、お金の価値が上がるデフレになるはずです。しかし、このような経済成長では、むしろインフレになるので、どこかで通貨が発行されています。この過程についても別の回で考えることにして、経済活動で実体的な価値と通貨が増えることになります。例えば、釣り針と船を買った漁師は魚を釣ることができるので、魚という実体的価値が増えています。それだけでなく、通貨も増えていて、それを司るのは政府しかないでしょう。

 表1では経済成長しませんので、お金回しは無意味ですが、経済活動を行うクラブでは、余裕のある会員Aのお金を会員Bに回すことでお金が増えます。ならば、幹事は、会員Aから借金して他の会員に配分すべきでしょう。その結果、幹事の会計は赤字になりますが、家計の赤字とは意味が違います。クラブのお金の総額は幹事が借金した額以上に増えており、会費を集めれば返済できます。にもかかわらず、借金もせず会員への配分(支出)も減らし、幹事の財布にため込んで黒字になったと喜ぶ幹事は頭がおかしくなっています。

 

■ぐるぐる回しクラブ幹事の借金は返せる。

 経済活動を行うクラブの幹事は、もう殆ど政府と言ってよいでしょう。そして、会員から集めた会費を配分せず、ため込んで黒字だと喜んでいる頭のおかしい幹事に相当するのが財務省です。大局的に見れば、国債などの借金は支出した時点で国民に返済されたと言えます。表1で言えば、会員Aからの借金を配分した4の段階に相当します。幹事の金庫は空になり、会員の財布の合計は1200と元に戻っています。ただ、会員間での不均衡があるので、さらに会費を集め、会員Aに返済して不均衡を解消します。表1の6の段階で不均衡は解消し、2の段階に戻ります。表1では経済成長しないので、合計は1200のままですが、現実には、配分した4の段階の後で増えます。

 借金した表1の3の段階では幹事は120の赤字です。これが返済できなくなって破綻すると財務省は言っているわけです。しかし、会費を集めれば必ず返済できます。返済額が徴収可能な会員の持っているお金を超えることはあり得ません。グルグル回しですからね。経済成長がある場合は、その見通しが外れれば、返済できない可能性はあります。ですから、経済成長の見通しによって借金の限度額は決まりますが、借金は赤字だからダメということはありません。そんなことを言うのは財務省ぐらいです

 

■現実の経済は複雑だが

 なお、実体的な価値を生むのは資源や労働力のぐるぐる回しですが、お金を介して行うことで物々交換的経済より飛躍的に効率的で活発にできます。さらに、資源や労働力とお金の関係、つまり物価も変動します。貨幣量の調整という金融政策と、政府支出の調整という財政政策が絡み合い、物価や経済成長に影響し、そのメカニズムは素人の私には手に負えません。物価や金利の変動という時間の要因とさらに人間の思惑が関係するので簡単ではなく、専門家の意見もさまざまです。

 それでも、お金を発行できる政府が赤字を気にするのはおかしいと、素人の私でもわかります。むしろ、政府は自らが赤字になり支出することで、お金を回すのが仕事じゃないのと思います。経済成長のない表1では、借金や会費徴収は、合計1200を超えることはできませんが、経済成長があれば、将来の成長を見越して超えることが可能になります。この成長の見積もりが重要で、それに応じた借金をして、通貨も増やすのが任務だと思います。

 

■奇妙な財務省の任務

 頭のおかしくなったクラブ幹事と同じことを財務省がするのは、多分、財務省設置法に原因がありそうです。設置法には財務省の任務として「健全な財政の確保」とは書いてありますが、「国の経済発展に資する」のようなことは書いてありません。国民を貧乏にして、政府の財政を健全にしてもよいのです。国民が貧乏になれば財政も健全にはなりませんが。

 

■奇妙な総務部の任務

 会社でいえば政府は総務部です。総務部は会社全体の会計を健全にするのが任務だと思います。しかし、仮に総務部だけの健全な財政が任務になっていればどうなるでしょうか。直接的な収益のない総務部は、他の部の収益を上納させて、ため込むだけになり、いずれ会社は倒産するので、総務部も同時に消滅します。

 

■奇妙な審判の任務

 クラブの幹事と会員の立場は違いますし、政府と国民の立場も違います。同様に、スポーツの選手と審判の立場も違います。

 審判がレッドカードを選手に配布するスポーツがあります。レッドカードはマイナスのお金のようなもので、限度を超えると、退場させられます。選手がレッドカードを持っているのは赤字のようなものですが、立場の違う審判には関係有りません。試合を公正に進めるためにレッドカードを配る立場です。

 しかし、審判の任務が、「健全なレッドカード保有」となっていて、レッドカードを持っていると自分も退場させられると審判が心配しだしたらどうなるでしょうか。まず選手が殆ど退場させられ、試合続行不能になり審判も失業しますね。

国家財政と家計の違いを考えて見たー(多分その1)

 財務省は、財政を家計の赤字に譬えます。しかし、通貨を発行出来て、税金を徴収できる政府日銀の赤字を心配するのは、直感的にも奇妙に感じます。財政赤字と家計の赤字は何が違うのでしょうか。経済の専門家がいろいろ解説しているので正確な説明はそちらにまかせて、直観だけでなく、納得できて分かり安い説明についていろいろ考えてみます。テーマはいろいろあるので、シリーズになるかもしれません。とりあえず(その1)です。

 

■ その1 国債の借り換えは借金で借金を返すことか

 国債の借り換えは、借金の返済を借金で行うようなイメージがあります。借金はどんどん膨らんでいき、いずれ破綻しそうで心配になります。しかし、企業は基本的に借金で運営されていますが、金銭感覚に乏しいギャンブラーがサラ金地獄で破産するようなことにはなりません。そもそも株式会社は借金から始まります。そして、お金が回っている限り倒産はしません。

 

 表1.にそのイメージを示しています。なお、利子などは無視して簡略化しています。最初は10の借金から始まりますが、それを元に事業を行い、仮に売り上げと支出が同じつまり利益ゼロでも、最初の10は残りますので、それで返済できます。最終的に負債は無くなり、初期状態に戻るので、このサイクルは繰り返すことが可能です。実際には利益が出ますので企業は発展していき、利子も払えます。

 

 一方、借金で借金を返すサラ金地獄は、表2.のようになります。返済のために2回目の借金をするわけですが、その借金は残ります。このサイクルを繰り返すと支出分の借金が積み重なっていきます。売り上げがないのに支出だけするのだから当たり前ですね。

 

 国債の借り換えもなんとなくこのイメージを抱いてしまいますが、国には税という収入がありますので、正しくは表3.にようになり、これは企業の表1.と全く同じなんですね。表2.のイメージは明白に間違いと言えますが、かくいう私も財務省に騙されてそんなイメージを持ちました。国債の借り換えは借金で借金を返すことではないというのが、まず私の思うところです。

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 ところで、表3.は借金(国債)から始まっていますが、税収から始めれば返済も不要です。そして多分、国の場合は税収から始まると考えた方が妥当だと思います。鶏が先か卵が先かということでいえば、企業の場合は、まず元手が無ければ売り上げも上げられませんので、借金から始まる場合が多いでしょう。それに対して、国には徴税の権力があるので、税収から始まると考えるのが妥当ではないでしょうか。ただ、それだと借金する必要はありませんが、現実には国債という借金をしています。これは何故でしょうか。

 

 思うに、国債とは、余裕のあるものに税の前納をしてもらっているのじゃないでしょうか。前納すれば割引されるのが普通で、国債には利子がついて戻ってきます。例えば、投資的支出のために増税したいとします。ただ、増税は国民にほぼ一律に行われるので、低所得者への影響が大きくなります。そこで、経済的余裕のあるものに先に負担してもらうわけです。投資的支出が効果を表し、経済が発展し、国民の所得が増えれば税収もふえますので、そこから、前納(国債を買った)者に返済(償還)できます。

 

 あるいは、既に前納しているので、後で納税する必要が無くなったとも解釈できます。国債を借金と考えて、国が返済すると考えるよりも、むしろ、この解釈が妥当かもしれません。何しろ国には国民に対して徴税の権力があるのです。そして税金は国民に返す必要はないのです。国債も税と関連付けて考えた方が分かり安いし、そう考えれば家計の赤字との意味の違いが良くわかります。海外の投資家が買った国債は文字通りの日本国の借金と言えますが、ほとんどの国債は国内で買われていて、その支出は国民のために行われます。政府という日本国民とは別の組織のために使われるわけじゃありませんからね

■ 遅刻について

 1980年頃、新宿ピットインで浅川マキのライブを聴いたことがあります。特にファンだったわけではなくて、大都会に上京して田舎にはない場所に行ってみたかっただけですが。

 

 その時、ちょっとした出来事がありました。地下の薄暗い穴倉みたいな場所で待っていてもなかなか開演しません。予定時間より1時間ほど遅れてやっと浅川マキが現れました。彼女が何事もなかったようにライブを始めようとしたとき、観客の一人が「遅れたことを謝ったらどうだ」とかなり立腹した様子で言いました。彼女は一言「悪かったわね」と言って歌いだしました。

 

 よくは、知りませんでしたが、遅刻は日常茶飯事なのかなと思いましたね。実は私も中学、高校の頃は、遅刻の常習者でした。親が水商売をしていて夜が遅いので、朝起きているのは私一人でした。自分でインスタントラーメンを作って食べて登校していました。時々寝坊すると当然、遅刻です。一番遅れたのは、1時限目の授業が終わった後でした。1時間以下なので浅川マキよりはマシです。欠席せずにちゃんと登校するところは我ながら律儀です。浅川マキも、遅れはしたもののちゃんとライブはしました。

 

 その後、東京に就職して、新宿に行ったりしたわけですが、遅刻者が結構多い職場でした。たまに対外的な打ち合わせもありましたが、ほとんどは一人で計算したり、図面を書くのが仕事でしたので、誰も遅刻に罪悪感がない様子でした。それどころか先輩の一人は、「仕事さえちゃんとすれば遅刻したっていい」と言ってましたね。時間管理にタイムカードなどなく、出勤簿にハンコを押していました。

 

 とはいえ、管理職はそのようなルーズさを放置できない立場だったようで、聞いた話では、かつての課長は出勤簿を自分の机の上に置いて、遅刻者がハンコを押すのを待っていたそうです。なお、その課長は浅川マキに苦情を言った人ではありません。多分。

 

 性格は人それぞれで、時間にものすごく正確な人もいます。私が一緒によく遊んでいた人もその一人ですが、人に迷惑をかけたくないという倫理観が強いのではなく、時間の無駄をなくすのが趣味みたいでした。ですから、遅刻だけでなく、早すぎるのも出来るだけなくそうとしていました。秒針まで合わせた時計を付け、電車の時刻表を調べ、待ち合わせ時間ピッタリに現れます。だた、時間ピッタリが理想で、アクシデントに対する安全を見ることはしないので、たまに遅刻していました。鉄道関係者でもなければ、時計の秒針まで見る人はあまりいないと思いますが、その人は、しっかり見ていました。時計には電池が消耗してくると、秒針が2秒から30秒に1回だけ動く省電力機能の付いたものがあります。たまたまその機能があると知らずに買ってしまったその人は返品したといってました。秒針が付いている意味がないと言っていました。

 

 一方で、遅刻が嫌いで、会議などにかなり早くやってくる人がいます。時間が無駄なので、席に座って何か別の仕事をされています。会議をセットする側にとっては大変有難いですが、会場の設営中にいらっしゃることもあるので程度問題ですね。

 

 さて、中学高校では遅刻常習者だった私も、現在では始業時間の1時間以上前に出勤する生活を10年ほど続けています。電車が混まないことと、朝の1時間は結構仕事がはかどることが分かったからです。年寄になって早起きは全然苦にならないし、夜10時には就寝していて豆腐屋さん的リズムになっただけです。遅刻したくないとか、人に迷惑かけたくないとか、そういう動機は一切ありません

「信用創造」が胡散臭く感じる理由

■ 飛行機の積載オーバー不安

 随分以前に那覇から渡嘉敷島まで飛行機で行ったことがあります。現在のRACの前身、南西航空(AWAL)の7人乗りぐらいの双発機でした。幸運にも見晴らし最高の助手席でしたよ。乗る前には、荷物と一緒に体重を計り、それで座席が決まります。バランスをとるためらしいです。

 南大東島行にも乗りました。こちらはもう少し大きな飛行機でしたが、やはり荷物と体重を計りました。南大東島の空港はすり鉢状の島の地形のため、気流状態によって着陸出来ず引き返すことがあるので往復の燃料が必要になります。積載する荷物が重いと燃料消費が早くなり海上に墜落してしまいます。そこで、荷物無という条件で載せることがあるためでした。ちょっと不安になりますね。

 しかし、よく利用する大きな飛行機では体重を量ったりしません。力士が集団で乗ることもありますが、大丈夫なのでしょうか。200人乗りの飛行機に力士が200人乗れば、影響があるかもしれませんが、現実にはその確率は小さいのでほぼ大丈夫です。人の平均体重が60kg、標準偏差が5kgならば、200人の総重量の期待値は60kg✕200=12000kg、標準偏差の期待値は、√(5×5×200)=70,7kgです。標準偏差は、一人分程度の重さにしかなりません。総重量が平均値12000kgから3人分の重さを超える確率は0.14%です。

 力士なら見た目で分かりますが、手荷物に金塊を忍ばせた乗客が200人乗ってくる確率もゼロではありません。しかし、航空会社はその可能性に備えはしません。何となく不安になりますね。

■ 銀行の信用不安

 私を含めた大抵の人は、銀行の「信用創造」でも似たような不安を感じるようです。子供の頃、「銀行は預かったお金を貸し出して、金利差で儲けている。」と学校で教えられました。これは間違いで、今では、学校でも「信用創造」を教えるそうです(ただし、信用創造とは言えない又貸し説らしい)。銀行は預かった現金を貸し出しているのではなく、貸出先の預金口座を作り、金額を書き込むだけです。預金口座からはいつでも現金が引き出せますから、銀行は手持ちの現金を持っていないと困るのではないかという不安になりますね。

 確かに、貸出先が1件だけなら、預金を全額、引き出される可能性は大きいです。しかし、多くの貸出し先が同時に引き出す可能性は極めて小さいことは、先ほどの航空機の例でもわかります。歴史的には、銀行の元になった金預かり業者が経験的に同時引き出しがないことに気づいたそうです。

 とはいえ、現金引き出しが全くないわけではないので、ある程度の現金を保有している必要はありますが、預金の金額の1割も必要ないようです。紙幣流通量は銀行預金残高の1/10以下しかありません。銀行の金庫にある現金はもっと少ないでしょう。制度的には銀行は預金額の一定比率以上の額を日銀当座預金に預けなければなりません。紙幣を発行しているのは日銀なので、日銀当座預金は現金と考えてよいでしょう。この比率は1%程度です。

・紙幣流通量 122兆円(2021年)

www.boj.or.jp

・銀行預金残高 1500兆円弱(2018年)

www.ifinance.ne.jp

 以上のように、銀行が保有している現金は、預金通帳に記載してある金額のごく一部でしかないのは事実で、議論するようなことではありません。にもかかわらず、銀行の預金には、現金の裏付けがあるという意見は根強いものがあります。確率の大数の法則が感覚的に理解しにくいからなんでしょう。「今は、皆さん全員に返せる現金の手持ちはありませんが、将来には返します」と言われると、「今から博打で儲けて返します」と言われているような胡散臭さが漂いますからね。

 銀行預金は、現金と交換しますという借用書であり、現金は物品やサービスと交換しますという借用書です。将来、価値あるものに交換するという約束を信用しているわけです。しかし、今現在、すべての借用書の約束を果たせるだけの現金、物品、サービスは存在しないのは何となくわかるのではないでしょうか。

 借用書の中には、同時には交換しないことを前提にしたものがあります。回数券の類です。ラッシュアワーの状態をみれば、発行した回数券すべてに同時に対応できる輸送能力が交通機関にはないのは明らかですね。

日本語の語順

 日本語の曖昧さは何かと話題になります。中村明裕さんのツイートは5つの解釈が可能な面白い一例です。文章を書いていると自分の意図と違う解釈をされることは頻繁にありますね。修飾部分がどの言葉を修飾しているか複数の解釈が可能だからです。とはいえ日本語でも、5つの状態の猫あるいは猫人間を区別できる異なる表現は可能です。それを試みたのが以下の5つです。日本語が母国語である人には納得していただけると思いますが、いかがでしょうか。

 

1.魚を食べる頭が赤い猫

2.頭が赤い魚を食べる猫

3.赤い魚を食べる頭の猫

4.赤い魚を食べる頭が猫だ

5.魚を食べる赤い頭が猫だ

 

 ところで、ネット上では、最初の3つ猫の絵は分かるが、後の2つの猫人間の絵は理解できないという声があります。後ろの2つの猫人間解釈は、「(人間の)頭が、○○な猫(になっている)。」という体言止めの文と解釈したわけです。「所さんの目がテン」と同じですが、少し分かりにくいのかもしれません。

 

 上記の1.から3.までの表現にもう一つ加えた4つの表現について、いろいろな解釈を図解の表にまとめました。「自然な解釈」のほか「可能な解釈」も示しましたが、このように読ませるには、読点を付ける必要があります。話す場合は、読点のところで間を置くことになります。

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 日本語は語順が自由と言われますが、標準的な語順はあるようです。「日本語はどんな言語か」(小池清治)という新書には「皆が待っていたあの春の暖かい風」という例が載っています。

 

皆が待っていた(節)

あの(連体詞)

春の(句)

暖かい(用言の連用形)

風(被修飾語)

 

 大雑把に言えば、長い節は短い句や語を飛び越えて被修飾語に達しますが、その逆は可能ではあるものの不自然に感じるのだと思います。小池清治氏のいうこのような「柔らかい規則」は他にも多くあり、日本語を母国語としているなら暗黙知として持っていると思います。しかし、意識していないので、私も分かりにくい文章を書いてしまうことが度々あります。意識すれば、文章を書くときには役立つのではないでしょうか。

 

 自然言語は、自然科学が扱う対象と似ているところがあります。専門家でなくても、言葉は話すし、リンゴが落ちることは知っています。しかし、その裏にある規則や原理は意識してはいません。専門家がそれを明らかにしてくれると「なるほど」と納得できますし、面白いですね。