■ 遅刻について

 1980年頃、新宿ピットインで浅川マキのライブを聴いたことがあります。特にファンだったわけではなくて、大都会に上京して田舎にはない場所に行ってみたかっただけですが。

 

 その時、ちょっとした出来事がありました。地下の薄暗い穴倉みたいな場所で待っていてもなかなか開演しません。予定時間より1時間ほど遅れてやっと浅川マキが現れました。彼女が何事もなかったようにライブを始めようとしたとき、観客の一人が「遅れたことを謝ったらどうだ」とかなり立腹した様子で言いました。彼女は一言「悪かったわね」と言って歌いだしました。

 

 よくは、知りませんでしたが、遅刻は日常茶飯事なのかなと思いましたね。実は私も中学、高校の頃は、遅刻の常習者でした。親が水商売をしていて夜が遅いので、朝起きているのは私一人でした。自分でインスタントラーメンを作って食べて登校していました。時々寝坊すると当然、遅刻です。一番遅れたのは、1時限目の授業が終わった後でした。1時間以下なので浅川マキよりはマシです。欠席せずにちゃんと登校するところは我ながら律儀です。浅川マキも、遅れはしたもののちゃんとライブはしました。

 

 その後、東京に就職して、新宿に行ったりしたわけですが、遅刻者が結構多い職場でした。たまに対外的な打ち合わせもありましたが、ほとんどは一人で計算したり、図面を書くのが仕事でしたので、誰も遅刻に罪悪感がない様子でした。それどころか先輩の一人は、「仕事さえちゃんとすれば遅刻したっていい」と言ってましたね。時間管理にタイムカードなどなく、出勤簿にハンコを押していました。

 

 とはいえ、管理職はそのようなルーズさを放置できない立場だったようで、聞いた話では、かつての課長は出勤簿を自分の机の上に置いて、遅刻者がハンコを押すのを待っていたそうです。なお、その課長は浅川マキに苦情を言った人ではありません。多分。

 

 性格は人それぞれで、時間にものすごく正確な人もいます。私が一緒によく遊んでいた人もその一人ですが、人に迷惑をかけたくないという倫理観が強いのではなく、時間の無駄をなくすのが趣味みたいでした。ですから、遅刻だけでなく、早すぎるのも出来るだけなくそうとしていました。秒針まで合わせた時計を付け、電車の時刻表を調べ、待ち合わせ時間ピッタリに現れます。だた、時間ピッタリが理想で、アクシデントに対する安全を見ることはしないので、たまに遅刻していました。鉄道関係者でもなければ、時計の秒針まで見る人はあまりいないと思いますが、その人は、しっかり見ていました。時計には電池が消耗してくると、秒針が2秒から30秒に1回だけ動く省電力機能の付いたものがあります。たまたまその機能があると知らずに買ってしまったその人は返品したといってました。秒針が付いている意味がないと言っていました。

 

 一方で、遅刻が嫌いで、会議などにかなり早くやってくる人がいます。時間が無駄なので、席に座って何か別の仕事をされています。会議をセットする側にとっては大変有難いですが、会場の設営中にいらっしゃることもあるので程度問題ですね。

 

 さて、中学高校では遅刻常習者だった私も、現在では始業時間の1時間以上前に出勤する生活を10年ほど続けています。電車が混まないことと、朝の1時間は結構仕事がはかどることが分かったからです。年寄になって早起きは全然苦にならないし、夜10時には就寝していて豆腐屋さん的リズムになっただけです。遅刻したくないとか、人に迷惑かけたくないとか、そういう動機は一切ありません

「信用創造」が胡散臭く感じる理由

■ 飛行機の積載オーバー不安

 随分以前に那覇から渡嘉敷島まで飛行機で行ったことがあります。現在のRACの前身、南西航空(AWAL)の7人乗りぐらいの双発機でした。幸運にも見晴らし最高の助手席でしたよ。乗る前には、荷物と一緒に体重を計り、それで座席が決まります。バランスをとるためらしいです。

 南大東島行にも乗りました。こちらはもう少し大きな飛行機でしたが、やはり荷物と体重を計りました。南大東島の空港はすり鉢状の島の地形のため、気流状態によって着陸出来ず引き返すことがあるので往復の燃料が必要になります。積載する荷物が重いと燃料消費が早くなり海上に墜落してしまいます。そこで、荷物無という条件で載せることがあるためでした。ちょっと不安になりますね。

 しかし、よく利用する大きな飛行機では体重を量ったりしません。力士が集団で乗ることもありますが、大丈夫なのでしょうか。200人乗りの飛行機に力士が200人乗れば、影響があるかもしれませんが、現実にはその確率は小さいのでほぼ大丈夫です。人の平均体重が60kg、標準偏差が5kgならば、200人の総重量の期待値は60kg✕200=12000kg、標準偏差の期待値は、√(5×5×200)=70,7kgです。標準偏差は、一人分程度の重さにしかなりません。総重量が平均値12000kgから3人分の重さを超える確率は0.14%です。

 力士なら見た目で分かりますが、手荷物に金塊を忍ばせた乗客が200人乗ってくる確率もゼロではありません。しかし、航空会社はその可能性に備えはしません。何となく不安になりますね。

■ 銀行の信用不安

 私を含めた大抵の人は、銀行の「信用創造」でも似たような不安を感じるようです。子供の頃、「銀行は預かったお金を貸し出して、金利差で儲けている。」と学校で教えられました。これは間違いで、今では、学校でも「信用創造」を教えるそうです(ただし、信用創造とは言えない又貸し説らしい)。銀行は預かった現金を貸し出しているのではなく、貸出先の預金口座を作り、金額を書き込むだけです。預金口座からはいつでも現金が引き出せますから、銀行は手持ちの現金を持っていないと困るのではないかという不安になりますね。

 確かに、貸出先が1件だけなら、預金を全額、引き出される可能性は大きいです。しかし、多くの貸出し先が同時に引き出す可能性は極めて小さいことは、先ほどの航空機の例でもわかります。歴史的には、銀行の元になった金預かり業者が経験的に同時引き出しがないことに気づいたそうです。

 とはいえ、現金引き出しが全くないわけではないので、ある程度の現金を保有している必要はありますが、預金の金額の1割も必要ないようです。紙幣流通量は銀行預金残高の1/10以下しかありません。銀行の金庫にある現金はもっと少ないでしょう。制度的には銀行は預金額の一定比率以上の額を日銀当座預金に預けなければなりません。紙幣を発行しているのは日銀なので、日銀当座預金は現金と考えてよいでしょう。この比率は1%程度です。

・紙幣流通量 122兆円(2021年)

www.boj.or.jp

・銀行預金残高 1500兆円弱(2018年)

www.ifinance.ne.jp

 以上のように、銀行が保有している現金は、預金通帳に記載してある金額のごく一部でしかないのは事実で、議論するようなことではありません。にもかかわらず、銀行の預金には、現金の裏付けがあるという意見は根強いものがあります。確率の大数の法則が感覚的に理解しにくいからなんでしょう。「今は、皆さん全員に返せる現金の手持ちはありませんが、将来には返します」と言われると、「今から博打で儲けて返します」と言われているような胡散臭さが漂いますからね。

 銀行預金は、現金と交換しますという借用書であり、現金は物品やサービスと交換しますという借用書です。将来、価値あるものに交換するという約束を信用しているわけです。しかし、今現在、すべての借用書の約束を果たせるだけの現金、物品、サービスは存在しないのは何となくわかるのではないでしょうか。

 借用書の中には、同時には交換しないことを前提にしたものがあります。回数券の類です。ラッシュアワーの状態をみれば、発行した回数券すべてに同時に対応できる輸送能力が交通機関にはないのは明らかですね。

日本語の語順

 日本語の曖昧さは何かと話題になります。中村明裕さんのツイートは5つの解釈が可能な面白い一例です。文章を書いていると自分の意図と違う解釈をされることは頻繁にありますね。修飾部分がどの言葉を修飾しているか複数の解釈が可能だからです。とはいえ日本語でも、5つの状態の猫あるいは猫人間を区別できる異なる表現は可能です。それを試みたのが以下の5つです。日本語が母国語である人には納得していただけると思いますが、いかがでしょうか。

 

1.魚を食べる頭が赤い猫

2.頭が赤い魚を食べる猫

3.赤い魚を食べる頭の猫

4.赤い魚を食べる頭が猫だ

5.魚を食べる赤い頭が猫だ

 

 ところで、ネット上では、最初の3つ猫の絵は分かるが、後の2つの猫人間の絵は理解できないという声があります。後ろの2つの猫人間解釈は、「(人間の)頭が、○○な猫(になっている)。」という体言止めの文と解釈したわけです。「所さんの目がテン」と同じですが、少し分かりにくいのかもしれません。

 

 上記の1.から3.までの表現にもう一つ加えた4つの表現について、いろいろな解釈を図解の表にまとめました。「自然な解釈」のほか「可能な解釈」も示しましたが、このように読ませるには、読点を付ける必要があります。話す場合は、読点のところで間を置くことになります。

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 日本語は語順が自由と言われますが、標準的な語順はあるようです。「日本語はどんな言語か」(小池清治)という新書には「皆が待っていたあの春の暖かい風」という例が載っています。

 

皆が待っていた(節)

あの(連体詞)

春の(句)

暖かい(用言の連用形)

風(被修飾語)

 

 大雑把に言えば、長い節は短い句や語を飛び越えて被修飾語に達しますが、その逆は可能ではあるものの不自然に感じるのだと思います。小池清治氏のいうこのような「柔らかい規則」は他にも多くあり、日本語を母国語としているなら暗黙知として持っていると思います。しかし、意識していないので、私も分かりにくい文章を書いてしまうことが度々あります。意識すれば、文章を書くときには役立つのではないでしょうか。

 

 自然言語は、自然科学が扱う対象と似ているところがあります。専門家でなくても、言葉は話すし、リンゴが落ちることは知っています。しかし、その裏にある規則や原理は意識してはいません。専門家がそれを明らかにしてくれると「なるほど」と納得できますし、面白いですね。

石綿規制が労働環境の悪化を引き起こすかも

 大気汚染防止法石綿障害予防規則の石綿関連の規定が2020年に改正され順次施行されている。二つの法令の二重規制の解消など改善されていてありがたいが、一点、気になるのが「仕上塗材(しあげぬりざい)」の規制である。仕上塗材とは主に建築物の外壁に塗布される材料である。仕上塗材には石綿が含まれているものがあった。また仕上塗材の下地調整に使う材料にも含まれるものがある。平常は飛散しないので問題ないが、外壁改修などで除去する際に飛散する恐れがあることから規制が追加された。従来の石綿の規制は建物屋内の飛散しやすい吹き付け石綿などが中心であった。建材から石綿が飛散し、それを建設労働者が吸い込むことで健康被害を起こしたからである。

 健康被害は、ほとんどがそのような高濃度環境で長期間にわたって働く人の労働災害であった。建物使用者の健康被害や、屋外環境での暴露による健康被害は、旧クボタ工場周辺住民のような例を除き殆どない。

 建設工事では、労働災害と第三者の公衆災害があり、石綿に関しては労働災害がほぼ全てで公衆災害は皆無だ。両方の災害があるものには塗装工事がある。塗装の場合の公衆災害は不快な臭いであり深刻な健康被害はないが、屋内で塗装作業を行うと中毒などの重大な労働災害が起こる。そのため、換気が必須である。換気すれば有害な有機溶剤が一般環境に放出され公衆災害を引き起こすかというと、そのようなレベルとは程遠い。換気で屋外排出が推奨されている。

 一方、石綿が含まれる仕上塗材の除去は屋外作業であるが、今回の法改正によって、場合によっては周囲をシートなどで覆い「隔離(吹き付け材のように負圧にする必要まではないが)」して周辺に飛散しないようにしなければならなくなった。屋内環境に近づくわけで、労働環境としては悪化するが、公衆災害を防ぐためである。ところが、前述のように、建設工事では、公衆災害は起きていない。起きているのは専ら、建設労働者の労働災害である。旧クボタ工場の周辺住民は、高濃度(大防法の敷地周辺での規制値 1L当たり石綿繊維10本の数百倍)の空気を何十年もの長期間吸い込み続けて、肺がんや中皮腫になったのである。建物の外壁の改修工事が数十年にわたって行われることはあり得ない。飛散する石綿繊維も後述するように桁違いに少ないはずである。発生していない公衆災害を減らすのは不可能だが、不可能を達成するために、発生している労働災害を増やすかもしれないのである。

 建設工事の石綿規制の方針は、「石綿をゼロ」であり、どの程度の量なら健康被害を起こすかという観点がない。建材に含まれる石綿が重量で0.1%以下というのがその代表例である。この数字は健康被害とは無関係だ。健康被害と関係するのは人間が吸い込む空気中の石綿濃度と吸い込む期間である。1%の石綿を含む建材1グラムを使用した部屋と含有量0.1%の建材10kgを使用した部屋の空気中石綿濃度は後者が大きいだろうが、規制を受けるのは前者である。0.1%というのは石綿の検出限界から出てきた数値であって、ゼロリスクと現実の測定技術の妥協の産物でしかない。定量的な健康への影響という視点はないのである。

 
 大防法や石綿測の建築解体工事や改修工事の規制について検討を行うのは主に建設関係の専門家である。彼らは、建材の石綿含有率0.1%や敷地周辺の10本/Lという目標を達成するための施工方法や対策を真剣に考えるが、それがどの程度健康被害を減らすのか、あるいは増やすのかについては多分知らない。健康被害についてはその道の専門家が出した結論を信頼し、それを与条件として建築的な対応を考えるだけである。しかし、材料分析の専門家が健康被害と無関係に、とにかく石綿をゼロにすればよいと考えたように、建築の専門家も考えているようなのだ。つまり、仕上塗材除去で発生する石綿をできるだけゼロにしようとする。健康被害は考えられないレベルかもしれないのにゼロにしようとする。その結果、別のリスクが増しているかもしれないのにだ。

 過去に、専門外だが、どの程度の空気中の石綿濃度にすれば健康被害が防げるのか大雑把なところを調べてみたことがある。今回、新たに調べたものを加えて以下に示す。

 

1.どの程度の量のアスベストを吸い込んだら発病するのか?厚労省QA

アスベストを吸い込んだ量と中皮腫や肺がんなどの発病との間には相関関係が認められていますが、短期間の低濃度ばく露における発がんの危険性については 不明な点が多いとされています。現時点では、どれくらい以上のアスベストを吸えば、中皮腫になるかということは明らかではありません。

 長期間の石綿暴露の影響は分かっているが、隣の建物の外壁の仕上げ塗り材を除去した粉塵に含まれる石綿を吸い込んだという短期間の影響は不明ということだ。そういう被害がないとは言い切れないが報告もないし、把握できていないということだろう。

 

2.石綿濃度とばく露量の判断

 長期間暴露は、いろいろ調べられている。

www.asbestos-center.jp

 リンク先「リスク評価モデルの参考例」の表中の日本産業衛生学会の評価モデルでは、1f/mL(1L当たり1000本だから大防法規制値の100倍)の環境に50年間暴露すれば、肺がんと中皮腫のリスクが1000人あたり26.84人増える。他の機関の評価と比べるため、1f/mLに1時間暴露した時の100万人当たりリスクだと0.28人である。機関によってばらつきはあるが、1L当たり400~1000本の環境に6年から70年暴露すれば、1000人当たり1人から22人のリスクが増える。なお、WHOの評価では喫煙者も調べており、非喫煙者の倍のリスクになっている。

 

3.旧クボタ工場周辺の石綿濃度(2006年04月12日 朝日新聞)

・・・最も推計数値が高かったのはヤンマーの工場で同規制値の300倍、日本産業衛生学会が石綿を取り扱う職場の目安として定める評価値(0.03f/ml)と比べても100倍に達した。

 最大値の推測だが、大防法規制値の300倍(1L当たり3000本)に数十年暴露すれば公衆も被害を受ける。

 

4.解体工事で発生している石綿濃度

環境省調査「令和2年度アスベスト大気濃度調査結果について」の表3によれば、総繊維数で、1L当たり数本から最大で85本である。大防法規制の石綿繊維数だと最大で6.3本なので規制値以下である。

 

 以上、大雑把ではあるが、健康被害が起こるのは1Lあたり数百本の石綿を含む空気を数十年間吸い続けた場合である。過去にはそのような過酷な労働環境が存在し、多数の被害者が発生した。一方、現在の解体現場から発生状況の調査結果では、大防法の規制値10本以下である。解体現場でその程度であり、外壁改修の仕上塗材除去ならもっと少ないだろう。周辺環境の健康被害の恐れは殆どないと思う。わざわざシートで囲って、労働環境を悪くすることはないと思う。ただ、シート覆いは必須ではない。湿潤化作業などでもよいのが救いである。

■ 「積極的勧奨の再開」ではなく「周知の再開」

 HPVワクチンの接種対象者への個別通知が再開されました。また、通知がなかったため接種機会を逃した女子への救済も行われます。再開に尽力された方には感謝したいと思います。

 さて、世間では「積極的勧奨の再開」と言われていますが、これは間違いです。正しくは「周知の再開」です。単に言葉の問題に過ぎないと思われるかもしれませんが、「積極的勧奨の差し控え」として行われたのは法令に定めのある「周知」を止めたのであり、違法でした。

 違法と考える理由は、過去記事に書きましたが、多少の勘違いがありましたので、改めて整理します。

 

〇 予防接種法には、「積極的勧奨」という用語は使われていない。使われているのは「勧奨」だけである。

(予防接種の勧奨)

法第八条 市町村長又は都道府県知事は、第五条第一項の規定による予防接種であってA類疾病に係るもの又は第六条第一項若しくは第三項の規定による予防接種の対象者に対し、定期の予防接種であってA類疾病に係るもの又は臨時の予防接種を受けることを勧奨するものとする。

〇 予防接種法施行令には、「周知」という用語が使われており、接種対象者に必要な事項を周知しなければならないとしている。

(対象者等への周知)

令第六条 市町村長は、法第五条第一項の規定による予防接種を行う場合には、前条の規定による公告を行うほか、当該予防接種の対象者又はその保護者に対して、あらかじめ、予防接種の種類、予防接種を受ける期日又は期間及び場所、予防接種を受けるに当たって注意すべき事項その他必要な事項を周知しなければならない。

〇 法の「勧奨」は予防接種のメリットを示して接種した方がよいとお勧めするもので、令の「周知」は単なる接種情報(対象者であること、期日又は期間及び場所、注意事項)をお知らせするもので、別である。

 

〇 令の「周知」については、厚生労働省健康局長通知が都道府県知事に発出されており、「その周知方法については、やむを得ない事情がある場合を除き、個別通知とし、確実な周知に努めること。」としている。

予防接種法第5条第1項の規定による予防接種の実施について」(平成25年3月30日付け健発0330第2号厚生労働省健康局長通知)の別添「定期接種実施要領」

 

2 対象者等に対する周知

(1) 定期接種を行う際は、政令第5条の規定による公告を行い、政令第6条の規定により定期接種の対象者又はその保護者に対して、あらかじめ、予防接種の種類、予防接種を受ける期日又は期間及び場所、予防接種を受けるに当たって注意すべき事項、予防接種を受けることが適当でない者、接種に協力する医師その他必要な事項が十分周知されること。その周知方法については、やむを得ない事情がある場合を除き、個別通知とし、確実な周知に努めること。

〇 厚労省HPの子宮頸がんワクチンQAのA25で、「『積極的勧奨』とは接種を促すハガキ等を各家庭に送ること等により積極的に接種をお勧めする取り組みを指しています」と説明している。これは、厚生労働省健康局長通知と合っていない。

A25. A類疾病の定期接種については、予防接種法に基づき市町村が接種対象者やその保護者に対して、接種を受けるよう勧奨しなければならないものとしています。

 具体的には、市町村は接種対象者やその保護者に対して、広報紙や、ポスター、インターネットなどを利用して接種可能なワクチンや、接種対象年齢などについて広報を行うことを指しています。

 「積極的な勧奨」とは、市町村が対象者やその保護者に対して、標準的な接種期間の前に、接種を促すハガキ等を各家庭に送ること等により積極的に接種をお勧めする取り組みを指しています。(※)

※HPVワクチンの場合、政令で定める標準的接種年齢(中学1年相当)を迎える前に個別に通知することが一般的です。

今回の「積極的な勧奨の差し控え」は、このような積極的な勧奨を取り止めることですが、HPVワクチンが定期接種の対象であることは変わりません。このため、接種を希望する方は定期接種として接種を受けることが可能です。 一方、定期接種の中止とは、ワクチンを定期接種の対象外とすることで、予防接種法に基づかない任意接種として取り扱われることになります。

〇 QA26では、「周知」とは接種対象者及びその保護者に情報提供資材を個別にお送りするもので、お勧めするものではないと説明している。これは、厚生労働省健康局長通知と合っている。

A26. 今までも、リーフレットを用い、ワクチンの有効性と安全性に関する情報提供に取り組んできましたが、調査の結果、国民のみなさまに情報が十分に行き届いていないことが明らかになりました。これを踏まえ、公費によって接種できるワクチンの一つとしてHPVワクチンがあることについて知っていただくとともに、HPVワクチン接種について検討・判断するためのワクチンの有効性・安全性に関する情報等や、接種を希望した場合の円滑な接種のために必要な情報をお届けするため、リーフレット等の情報提供資材を、接種対象者及びその保護者に個別にお送りする方針が、専門家の会議で決まりました。

 接種をお勧めする内容ではなく、子宮頸がんやワクチンに関する情報や接種に必要な情報を個別にお送りすることは、積極的な勧奨とは異なります。

 

以上から、次のことが言えます。

 

〇 お勧めする「勧奨」と単なる情報提供の「周知」は共に法定事項であり、法令改正せずに差し控えることは出来ない。

 

〇 厚労省は、「周知」と「勧奨」を混同させ、さらに「積極的勧奨」という用語を作り出し、その意味を「接種対象者への個別通知」とした。それによって、違法に「周知(個別通知)」を止めながら違法でないように見せかけた。

 

 厚労省は「勧奨」はするが「積極的勧奨」はしないとお勧めするのかしないのか、わからないことを言ったわけですが、本心がどっちだろうと、接種率向上に効果があるのは「周知」の個別通知です。現実に、一時は70%程度の接種率が0.6%まで下がりました。

 実は、「積極的勧奨の差し控え」継続中の昨年10月には、「周知」の個別通知をせよと厚生労働省健康局健康課長は都道府県へ通知しています。その「積極的勧奨」とはQAのA25で個別通知と説明してますから矛盾です。8年前からの矛盾を目立たないように2段階で解消したのかどうか真意は不明ですが。

 ここまで法令について細かいことをあれこれ書きましたが、法を守ることよりも重要なことがあるような気がしています。実は「積極的勧奨の差し控え」は日本脳炎ワクチンの前例があります。このときは、ワクチンと副反応被害の関係を厚労省は実質的に認めています。しかし、法改正して接種を止めるには時間がかかります。緊急を要するので「積極的勧奨の差し控え」という超法規的措置を取ったのだと思います。

 ところが、HPVワクチンは全く事情が違います。ワクチンと副反応の関係は認められず、接種を止める被害の方が大きいことは分かっていながら、メディアの批判と訴訟が増えないように超法規的措置をとった疑いがあります。元厚労省課長がそれらしきことをBuzz Feedの記事で発言していました。

 「健康被害の防止」、「法令遵守」、「メディア批判と訴訟の回避」。この最後の優先順序が役所では高くなりがちです。

 

【追記】日本脳炎ワクチンの時は新しいワクチンが出来たため接種が数年で再開されました。確認できていませんが、おそらく「積極的勧奨の差し控え」ではなく接種を中止していたのではないでしょうか。健康被害との関係を認めたワクチンを接種するとは思えませんから。一方、HPVワクチンは、数は激減したものの接種は行われていました。

三本耳のウサギ 教育法としての掛け算順序

「ウサギが3羽で耳は何本?」という問題に「3×2=6」という式を書くと3本耳のウサギが2羽という意味になるという与太話があります。この話は掛け算順序の必要性を説明するために言い出されたのですが、その意図とは裏腹に掛け算順序教育など無意味であることを見事に示しています。もしかしたら、順序教育支持者を装った順序教育批判者による掛け算順序版「ソーカル事件」かと疑うほどです。(ウソ)

  掛け算順序は、「単位当たりの数」と「単位がいくつあるか」を区別するために必要と順序教育支持者は言います。区別できない子供が区別できるようにするため有効な教育法というのですね。そんなことは問題文を読めばわかると私は思うのですが、発達段階の子供はそうではないと順序教育支持者は言います。冒頭のウサギの問題を読んで「3本耳のウサギが2羽いる」と理解してしまう子供がいるらしいのです。そういう子供は「2×3」という式を書いてしまうので、式を見れば子供が理解しているか判断できるというわけです。なるほど。(ノリツッコミのノリ)

  いや、なるほどじゃない(ツッコミ)。ウサギ耳の話を最初にした人がそんな主旨で言ったのではないのは明らかです。「ウサギの耳が2本なのはみんなも知っているでしょう。「ウサギが3羽」と問題文に書いてあれば「ウサギが3羽」ですよね。でも、「3×2」という式はそう意味にはなりませんよ。」と言っているのです。つまり、掛け算には順序があるというウソを教えているだけで、「単位当たりの数」と「単位がいくつあるか」を区別できない子供がいるなんて思っちゃいません。仮にそんな子供が存在したとしても、掛け順序を教えたら区別できるようなることもありません。区別できて初めてウソの順序通りに書けます。ウソの順序を教えても区別できるようになるわけでも、区別できているか判断することもできません。

 「「右」という字を右側に「左」という字を左側に書きなさい」と指示された子供が「正しい」順序に書いても、「右」と「左」の意味を理解しているかは判断できません。左右を逆に理解しても「正しい」順序になりますからね。左右の区別は、伝統に従い「箸を持つ方が右」とでも教えれば済むのであって、回りくどくて荒唐無稽な左右記載教育は無用です。左右を区別できて初めて左右を指示通りに書けますが、指示通りに左右を書けといっても、左右が区別出来るようになるわけでも、区別できているか判断することもできません。

  更に、「単位当たりの数」と「単位がいくつあるか」は入れ替え可能です。ウサギの耳ならば、掛け算順序に従っても、片耳当たり3本、両耳で3×2と書くこともできます。左右についても「向かって右」と「背にして右」では逆になります。状況に応じて、どちらで考えてもよいことを片方に限定しても不自由で不便になるだけですね。

  ネット上の印象に過ぎませんが、交換法則に反する掛け算順序を本当に信じているのは少数派になっているようです。大抵の掛け算順序教育支持者は、子供に「単位当たりの数」と「単位がいくつあるか」を理解させるための教育方法であって、小学校段階を過ぎれば順序は気にしなくてよいなどと批判をかわそうとします。しかし、教育方法としても全くお話になりません。ウソを教えるのがまともな教育法であるはずもありません。

日常生活や仕事で使う名前は戸籍名に縛られないー選択的夫婦別姓論

■前置きー各党公約

 2021年衆議院選挙も終わりました。今更ですが、各党公約を見ると、自民党以外は選択的夫婦別姓に賛成しています。夫婦別姓というのは、市町村合併しても二つの自治体名を使うような奇妙さがあります。西東京市は、田無市と保土谷市が合併してできましたが、旧田無市西原町や旧保土谷市の新町が「田無市西原町」や「保土谷市新町」のままにしたいと言っているようなものではないでしょうか。

 確かに現行制度では婚姻によって、相手の姓になるのは従属するような気分になるかもしれません。市町村合併でも同じ感情があるようで、大抵はどちらの旧市町村名でもない新しいものにします。結婚後の姓も新しいものにすればよいと思いますが、現行法では出来ません。制度を変えるなら夫婦別姓よりは、新しい姓を認める方がいいのではないでしょうか。

 でも、制度を変えるほどの大問題なんでしょうか。改姓で仕事に支障が出るなら通称を使えば済みます。戸籍名なんて、行政上の整理記号みたいなもので、日常的に使う名前は自分の好きなものを使っていいんですよ。それを禁止する法律はないのですから。

 

■姓の歴史

 立憲民主党の選択的夫婦別姓の公約理由をみると「個人の尊厳と両性の本質的平等」となっていました。「姓」を個人のものと考えているようですが、先ずそこが勘違いですね。「姓」の歴史を振り返ってみます。官邸の資料が簡潔にまとまっているので参照します。

 

「姓」について

・古代の同族集団「ウジ」に対して、天皇が与えたものが「ウジ名」。

・「ウジ」の首長に対して、天皇が与えたものが「カバネ(姓)」。

・「ウジ名」と「カバネ」を合わせたものが「姓(セイ)」

・以上は、集団、職務、地位の名称、さらに個人を表す「実名」がある。

・藤原朝臣不比等 … 姓は「藤原朝臣」(藤原=ウジ名、朝臣=カバネ、不比等=実名)

 この「姓」は、父系で継承されたましたが、支配層ではない庶民には当然、そんなものはありませんでした。なお、父系継承は中国から伝来したそうですが、「わが国では 同姓不婚の観念は見られず 他方 異姓養子の例もあれば、改姓も行われるなど、実態面では中国と異なる点が存在した。」というのが興味深いです。確かに、嫁入りだけでなく婿入りもあります。女性天皇もいましたね。

 

■姓は家族(集団)の名称 名は個人の名称

 要するに、「姓」とは集団やその集団支配層の地位を表すものだったということです。個人を表す「実名」とは違い、同じ集団に属するものは同姓なのはいうまでもありません。西東京市にある西原町の住所が「田無市西原町」では郵便配達人は大混乱します。

 

■現行家族制度と姓

 官邸の資料には、明治以降の制度の変遷もまとめてあります。戦前は次の通りです。なお、法令では「氏」に統一され「姓」は使われていません。「選択的夫婦別姓論」とは法令改正の議論なので本当は「選択的夫婦別氏論」とすべきですが、どうでもいいです。

 

・ 「氏」は、家の名称とされた(一家一氏の原則)

・入夫と婿養子は、妻の家に入ったので妻の家の「氏」を称する

・「氏」が家の名称とされたことにより、法律上は「氏」と血統とは直接の関係はなくなる。(例えば、従前、支配層では「氏」の父系継承の観念から妻は生家の「氏」を称していた。しかし、明治の民法により、夫の家に入った妻は、夫の家の「氏」を称することとなった。)

 

 「氏」は、家の名称なので、家を継いだものは「氏」も引き継ぐことになりますが、女性も引き継げました。興味深いのは、明治以前の妻は生家の「氏」を称していたことで、現代の夫婦別姓論者はそれと同じことを望んでいるのですね。

 明治以前は、父系継承が原則で、女性も父親の「氏」を継承し、嫁入りしても夫の家の部外者扱いです。そして自分の子供にも「氏」を継承させることはできませんでした。これが明治期には、実態はともかく制度的には男女に違いはなくなりました。

 

 次に、戦後の戸籍制度は次の通りです。

 

・戸籍は、一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに、これを編製する。

・夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する

・戸籍は、一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに編製

・戸籍は、その筆頭に記載した者の氏名及び本籍でこれを表示

・戸籍の筆頭者は、夫婦が、夫の氏を称するときは夫、妻の氏を称するときは妻

 

 戦後の現行制度では、結婚によって親の戸籍を離脱し、夫婦の新しい戸籍を作ることになりました。子供も結婚するまで親の戸籍に記載され、同じ「氏」を称します。つまり、「氏」とは婚姻によって新しく作られる戸籍の名称であって、親から子供に継承されるものではないということになります。ただ、中途半端なことに、夫や妻のどちらかの親の「氏」にしなければなりません。これは、市町村合併で「西東京市」にはできず「田無市」か「保土谷市」にしなければならないようなもので、対等な関係ならば、揉めること必至です。

 

夫婦別姓論の不合理  

 現行戸籍法では「氏」は夫婦とその未婚の子供からなる戸籍(家族)の名称なので、一つの家族に二つの名称を付けるのは不合理です。

「氏」も個人を表すものと考え、家族の統一名称は不要という「氏」廃止論はありうると思いますが、夫婦別姓論者はそのような過激な主張ではないようです。生家の「氏」を使いたいという、むしろ、明治以前の嫁入り後も生家の「氏」を名乗る制度に近いですね。

 

夫婦別姓を望む理由

 夫婦別姓を望む理由の一つは、長年親しんだ氏に愛着があるという心情的なものが多いです。相手の氏に変えるのは服従させられている感もあります。その心情はわからないでもないので、どちらの「氏」でもない新しい氏にできればよいと思います。それも嫌だ、自分の親の「氏」にしたいという時代錯誤な人は、自分で結婚相手と交渉してください。

 もう一つ、改姓で仕事に支障があるというもっともな理由があります。これについては、通称使用の社会的認知であって、法や制度の問題ではないと思います。芸能人は芸名を使いますし、選挙の登録名が戸籍と違う政治家も多くいます。一般人でも戸籍と違う氏名を仕事で使っている人は結構います。別に通称使用を禁止する法律もありません。仕事に支障があるという理由で法を変えたがるのは、仕事で使う名前は戸籍名でなければならないと不自由に考えているからでしょう。