■ 無症状者への甲状腺がん検診は過剰診断と考える医師は、たまたま自分に無症状の甲状腺がんが見つかった場合に治療を受けるか

  • 過去記事のコメントの要約

 甲状腺がんの過剰診断の問題では、過剰診断と過剰治療の二つの異なる事柄が絡み合っています。過剰診断で見つかったがんの治療なら過剰診断過剰治療かというとそうでもないのが難しいところです。この件に関しては以前に記事を書きました。

 

shinzor.hatenablog.com

 

  この記事のコメント欄で、名取宏(なとろむ)さんから卵巣がんを例にとって丁寧に理由の説明をしていただきました。要約すると、次のようになります。

 

  1. 無症状の人に検診した場合と対照群(検診しない)に違いがないことは分かっているので、検診は推奨されない。
  2. しかし、無症状の人に見つかったがんを治療した場合と放置した場合の比較はできていない。将来も比較はできないだろう。(おそらく、倫理的に)
  3. したがって、無症状で見つかったがんは、ガイドラインに従って処置(治療)される。
  4. もし、治療せずに、がんで死亡したなら医者は訴えられるだろう。

 

  • 治療を行う理由は、医学的根拠ではなく、医療訴訟対策という「大人の事情」あるいは、患者を安心させるためではないかという疑問

  前節の説明の1.で無症状者の検診と検診無の違いは治療の有無です。検診でがんが見つかれば治療されますが、検診しなければ見つからないので当然治療されないからです。この違いにもかかわらず、両者の死亡率に違いはありません。ならば治療に効果がないと考えたくなりますが、ちゃんと効果がないと言うためには2.の比較を行わなければなりません。しかし、それは倫理的に行うことが困難です。

  1.だけでは、治療に効果がないと言えないのは、いろいろな可能性があるからです。例えば、無症状のがんの中には、将来、死に至るガンに成長するものもあり、それは早期治療で予防できるのかもしれません。しかし、そのまま放置すれば何も害はないのに、下手な治療で刺激して有害ながんにしてしまう場合もあるかもしれません。その両者が相殺していれば。検診と検診無で結果はかわりません。あるいは、別の可能性として、検査でがんが見つかった心理的影響(ノセボ効果)で増えた死亡を、効果のない治療のプラセボ効果で相殺したとも考えられます。他の仮説もあるでしょうが、検証は困難です。

 1番目の場合は、治療の得失が相殺しているので、治療を行わなくても結果は変わりません。有益な治療も有害な治療もあるのですが、個別の症例がどちらなのかはわからず、可能性としては治療をしてもしなくても同じです。個人的にはこのような治療も過剰治療ではないかと思いますが、専門家の意見は違うのかもしれません。一方、2番目の場合(ノセボ効果をプラセボ効果で相殺する場合)は、検診の「失」を治療の「得」で相殺しているので、検診だけ行い、治療を行わなければ「失」だけが残ります。なので、治療を行わざるを得ませんが、そもそも検診を行っていなければ無用だった治療です。しかも、この治療は心理的な効果でしかありません。心理的な効果しかないとわかりながら、手術という侵襲的な治療を行ってよいものか疑問です。

 以上のことをまとめると、無症状のがんの治療にプラセボ効果以上の効果があるかは不明であり、治療を行う合理的根拠はありません。しかし、検診で見つけてしまった以上、ガイドラインに従わず、放置すれば訴えられる可能性があり治療せざるを得ないという「大人の事情」があるということです。そのガイドラインも症状のないがんに適用できるか不明です。適用できるか調査することも倫理的に難しく、調査するにしても10年単位の時間を要するようです。ただし、検診でがんが見つかった場合にノセボ効果があるのなら、プラセボ効果しかない治療でも行わざるを得ないでしょう。このように考えると、確かに過剰治療とは言えないかもしれませんが、それは過剰診断をしてしまったという前提での話です。検診を行っていなければ治療は行わずに済み、検診と治療を行った場合と(統計的な)違いはないのですから釈然としません。

  • 無症状者への甲状腺がん検診を行わなければ、悩ましい問題は生じないが、たまたま見つけてしまった場合はどうか

 結局、一番良いのは無症状者に検診を行わないことです。そうすれば「大人の事情」も生じません。なお、検診で意図的に見つけるのではなく、たまたま見つかってしまう場合もあります。その場合も治療せざるをえないようですが、個人的には疑問です。

 私には胃に憩室という異常があり、人間ドックの結果には必ず記載されています。しかし、特に治療の必要なしと放置されています。憩室が将来、胃がんには絶対ならないという保証はありませんが、その可能性は少ないと分かっているので、不安になってノセボ効果で具合が悪くなることもありません。

 ただ、憩室と甲状腺がんは違うと考える人も多いかもしれません。しかし、私にはその違いがやはりわかりません。あえて考えると、「憩室」と「胃癌」は、名称からして違い、別物ですが、無症状の「甲状腺がん」と有症状の「甲状腺がん」はどちらも「甲状腺がん」で同じという点です。また憩室が胃がんに変化したとしても、憩室の時点での治療法があるわけでもないようです。したがって、憩室を治療しなかったため胃がんになったと訴えられる可能性、つまり「大人の事情」がないことぐらいです。

 今の私の疑問は、無症状者への甲状腺がん検診は過剰診断と考える医師が、たまたま自分に無症状の甲状腺がんが見つかった場合に治療を受けるのかです。

■ 角を矯めて牛を殺す

 

 「病床を減らしたのは誰だ」と突っ込まれていますね。思わず、小泉元首相の悪夢を思い出して、この記事を書きました。

  かつての行政改革では、民営化とともにアウトソーシングが叫ばれました。行政のアウトソーシングとは民間に外注することで民営化とは全く違いますが、なんとなく同じような使われ方をしました。

 民営化とはいわゆるコア業務を手放すことで、民間企業でいえば事業譲渡に近いと思います。それに対してアウトソーシングコア業務をサポートするノンコア業務を外部に委託するだけで、普通に行われています。鉛筆やパソコンを、自分で作っている行政機関はありません。行政にとって、事務用品の生産はいうまでもなくコア業務ではありません。事務用品は、事務用品メーカーに外注(購入)した方が安上がりで、当たり前に行われていることです。

  行政改革では「民間でできることは民間に任せる」というキャッチフレーズがあって、アウトソーシングで経費削減せよということでした。ところが、事務用品同様に、公共工事でも、アウトソーシングはすでに100%近く行われていました。公共工事アウトソーシングとは民間建設業者に工事を発注することでこれまた当たり前に行われていました。

  行政にとっては、工事の実施はノンコア業務であってすでにアウトソーシング済みだったわけです。そこで奇妙なことが起こりました。公共工事自体の削減です。行政のコア業務である公共工事の発注を無駄とみなして削減が求められました。これはアウトソーシングを行うのとは全く意味が違います。公共工事を行うにあたって無駄を省くことと、公共工事自体を省くことはまるで別次元の話です。

  一般的に公共の仕事は支出をすることです。利益がなく民間では出来ないので公共が行うわけです。例えば、道路工事を考えれば明白です。有料道路で採算が取れるなら民間で実施することも可能です。しかし、無料で使える公共的な道路の発注は支出だけで収入がありません。民営化はできません。道路を作った利益は行政が得るのではなく、将来にわたって国民が受け取るものです。それを予測するのが事業評価で、行政の支出と将来の国民の利益を比較します。行政の支出は将来の利益を生むための投資ですが、それを無駄と切り捨てたのが小泉元首相だと思います。

  行政改革とは、このような長期的で国全体の利益を考えて行うものですが、小泉内閣では矮小化され単なるアウトソーシングによる経費削減になりました。なんとなく財務省健全財政路線と似てます。そこまでならよかったのですが、すでにアウトソーシンされている公共工事にはその余地がないため、経費削減ではなくて、公共工事そのものの削減が行われました。その結果、国土インフラは脆弱化し、現在は「国土強靭化計画」として立て直しをしなければならない事態になっています。

  行政改革とは本来、行政のパフォーマンスを向上させるものですが、単なる経費削減というしみったれた方策に堕して、何を勘違いしたのか行政のパフォーマンスを削減してしまったわけです。病気を減らそうとして病人を殺したようなものです。確かに病人が死ねば病気は減りますけどね。

  国立大学や国立研究機関も「改革」されました。こちらの方が事態は深刻と思いますが、強靭化計画はありません。

ダムや遊水池は周囲の農地や町を守るためにあり、それ自身が水を湛えるためにあるのではない

 通貨発行権を持つ政府に「健全財政」なる概念はないと思います。といっても赤字になればお金を刷ればよいから大丈夫という単純な話ではありません。適正な通貨発行量というものはあり、いわば「健全通貨発行量」はあるけど「健全財政」はないという話です。

 話を単純化するため「ベビーシッター組合」で考えます。「ベビーシッター組合」とは経済を単純化したモデルですが、知らない方は、リンク先の説明でも読んでください。経済と通貨を発行する国の役割の分かり安い説明になっています。

ari-no-socialscience.hatenablog.com

  さて、組合員の夫婦にはクーポン券の健全財政が必要です。必要な時に子守を頼むために手持ちのクーポン券をもっていなければなりません。つまり、クーポン券の収支は黒字の方がよいです。しかし、信用があれば借用書を書いて借金ならぬ借クーポンすることもできます。借クーポンは子守をすることで返済します。しかし、度が過ぎると信用を失い借クーポンできずに破綻します。財政破綻です。

 クーポン券を発行する組合事務局には、組合員夫婦のようにクーポン財政が破綻しないように健全財政を心掛ける必要がないのは明らかでしょう。そもそも子供のいない事務局に子守を頼む需要もありません。事務局の仕事はリンク先で説明されているクーポン券のインフレやデフレが起こらないように適正量を発行することです。その仕事を組合員の輪番かつ無料で行うのなら、会計も不要です。ただし、事務局作業に報酬を払うのなら会計が必要になりますが、その報酬をクーポン券で支払うなら収入は不要です。組合全体のクーポン券経済に比べれば事務局費用は微々たるものなので、インフレも起きないでしょう。会計といっても、事務局経費として発行した微々たる額のクーポン券を記録するたけで、収支を気にすることもありません。

 この事務局経費は国の会計でいえば公務員の給料に相当します。実際の国の会計ではそれ以外に公共工事発注なども行いその額の方がはるかに大きくなります。公共工事はそれなりの必要性があって発注されますが、経済的観点だけからいえば通貨量の調整のために行われ、ケインズが言ったように穴を掘って埋めるだけの工事でもよいのでしょう。

 公共工事の類も含めれば会計は大きくなりますが、デフレの時は市中の通貨を増やすため赤字になり、インフレなら市中通貨を吸い上げて黒字になります。「黒字の健全財政」だからいいってものじゃありません。ただし、国外(ベビーシッター組合)外との外部経済を考えれば破綻はあります。

 公共工事とはベビーシッター組合事務局でいえば、クーポン券デフレ状態で誰も子守を頼まないようなときに、子供もいない事務局が子守を組合員に頼み、組合活性化する呼び水のようなものじゃないでしょうか。実際に子守をしてもらうためには、別の組合員の子供の子守をしてもらうことになるかもしれませんが、その手法は何でもよく、重要なのはクーポン券流通量を増やすことで、それは事務局会計の赤字を意味します。クーポン券インフレの時は事務局の子守発注を抑え、支出をへらすので会計は黒字になります。

 国の会計は、ダム遊水地にもたとえられます。洪水になりそうなときは水をため込み、日照りの時は水を放出します。日照りなのに水をため込んだりしません。ダム遊水池は周囲の農地や町を守るためにあり、それ自身が水を湛えるためにあるのではありませんね。

 

【追記8/19】

世の中に流通しているお金に比べて、国家公務員の給料が微々たるものでインフレは起こらないと書きましたが、どんなものか調べてみました。

 お金の定義は色々有りますが、最も少ないM1(現金通貨+預金通貨)を考えてみます。

現金通貨はM1の1割程度で、現金を紙幣(日本銀行券)とすると120兆円程度ですので、流通しているお金は1200兆円ほどになります。

https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/money/c06.htm/

 国家公務員の人件費は5.3兆円でした。国家予算が100兆円程度なのでその5%程です。

https://www.mof.go.jp/faq/budget/01ah.htm

 紙幣は古くなると廃棄され新規発行され、その額は11兆円ほどです。

https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/order/bn_order.pdf

 以上より、国家公務員人件費は世の中に流通しているお金の0.4%、国家予算の5%、新規発行紙幣の半分程度です。

コンクリート調合管理強度の試験に必要な供試体数

供試体数

 コンクリート工事では、圧縮試験を行いコンクリート強度の確認を行う。この試験に必要な供試体数の質問は多いらしい。その中で、「調合管理強度」というものの供試体の数が良く話題になる。

 調合管理強度の判定の目的は、生コン工場が建設現場のゼネコンに納入する生コンクリートが注文通りの品質なのかの確認である。現場納入時点ではまだ固まっていないので強度の確認は出来ない。よって固まった後(28日から91日の間)に試験する。しかし、固まるまでの温度や養生の仕方で強度は変化するし、現場搬入後は生コンを受け取ったゼネコンの責任になる。そこで、現場に係わらない一定の条件で養生した供試体で試験を行う。この試験の強度は実際の建物に打ち込まれて固まったコンクリートの強度とは違うが、生コン工場が保証する強度である。

 さて、JASS 5では、この試験の供試体の数次のように定めている。

打込み日ごと、打込み工区ごと、150㎥以下ごとに1回の試験

1回の試験には3個の供試体を用いる。

 さらに、合否の判定基準は次の二つを満足することである。

(a)1回の試験の3個の供試体の強度の平均値が調合管理強度の85%以上

(b)3回の試験の9個の供試体の強度の総平均値が調合管理強度以上

  つまり、判定を下すためには3回の試験(9個の供試体)が必要そうである。

 ここで問題である。

毎日150㎥ずつ4日間で600㎥のコンクリートを打設した場合、供試体はいくつ必要か?

 実は、公式の回答はなく、次のように様々な意見がある。

①最も厳しい意見。コンクリート強度の確認は打ち込んだ日ごとに前記の(a)(b)の1セットを行わなければならない。従って、1日に9個、全体で36個必要である。

②比較的主流の意見。1日に行わなければならない試験は1回でよく、(b)の3回の試験は別の日のものでよい。450㎥以上あるので、2セットの試験を行うため18個必要である。

③緩い意見。3日目までの450㎥までで1セットの試験を行うため9個必要である。4日目に3個採取し、(b)の総平均値は2から4日目の3回の試験の平均値とする。よって12個

 この議論が行われる時に、そもそも何故(a)と(b)の二つがあるのかという根本的な理由は俎上に載ることは少ない。それよりも現場でどうすれば規定に反しないのかを知りたいのである。そのため、規定文の形式的な解釈の議論になる。しかし、規定文があいまいなのでどれほど議論しても結論は出ない。

 

私の意見

 私は、①から③とは違う意見だ。そもそも3個の平均値や9個の総平均値とするのは、コンクリートがバラツキの大きい材料だからである。本来は総ての供試体が調合管理強度以上であるべきだが、それでは厳しすぎるので2段階で緩和しているのだ。

 緩和の一つは、1回の試験では調合管理強度以上である必要はなく3回の試験の総平均値が調合管理強度以上であればよい。ただし、1回の試験の値があまりに小さい、つまりバラツキが大きすぎるのも問題なので、調合管理強度の85%とバラツキも制限している。

 二つ目は、1個の供試体には特に制限はなく、3個の平均値つまり1回の試験が調合管理強度の85%以上であればよい。1個の供試体は強度ゼロでも規定上は良いのである。

 つまり、1セットの判定に9個もの供試体が必要なのは、1個の供試体強度が小さくても(ゼロも可)全体的な強度があればよいわけだ。言い換えれば、大きな450㎥というボリュームの平均の強度があれば、局部的な50㎥のコンクリートの強度が小さくても、他の強度の高い部分が補っていて大丈夫と考えているのだ。150㎥なら85%以上あればよいのである。

 では、補ってくれる大きなボリュームがない場合は、どうすればよいか。補ってもらわなくても良いようにどの局部的箇所も強度があればいいはずである。例えば総量でも150㎥しかないならば、1回の試験が調合管理強度以上あればよい。

 ということで、私の意見は3日目までの9個の供試体で1セットの確認を行い、4日目は1回の試験で調合管理強度以上を確認するというものだ。都合12個と前述の③と同じ個数になる。ただし、判定基準が違うので③よりは厳しくなる。

 

楽ではない可能性

 供試体の数では12個と少なく、緩いのではあるが、1回の試験の判定基準が85%から100%となるので、実はそれほど緩くない可能性もある。しかし、現実にはその可能性はほとんどないだろう。前述のようにコンクリートはばらつきの大きい材料であるため、調合では相当の安全率を見込んであり、圧縮強度試験を行うとかなり大きな値になるのが普通である。さらに調合管理強度の試験とは別に構造体コンクリート強度の試験もある。これは実際に出来上がった建物の強度を推定する試験であり、ゼネコンが保証しなければならない強度である。そして、目的は違うが試験そのものは調合管理強度の試験と殆ど同じだが、1回の試験での85%緩和規定はなく、100%必要なのである。

 

【追記】

 調合管理強度はゼネコンと生コン工場間での責任に係わるが、施主にとってはあまり気にする必要はないと思う。施主はゼネコンに最終的な構造体コンクリート強度を保証してもらえばよい。他の材料、例えば鋼材などは製造過程での性能などは施主は求めない。プロセス管理は製造者には重要だが、施主は最終的な性能があればよいのである。

 レディミクストコンクリートが登場する前の現場練コンクリートの時代では施主側の監督が製造過程についても検査確認していた名残なのだと思う。鋼材のような工場製品は規格証明書を提出すれば試験も不要である。レディミクストコンクリートも工場製品でありJIS規格もあるが、何故か試験を行う。

 まだレディミクストコンクリート工場は信頼性に乏しいと見られているのだろうか。

 

【7/17追記】

 質問が多いのは、少量の場合だ。50㎥しか打ち込まないが供試体は9個必要なのかと。個人的には1回の試験を行い3個の供試体の平均値が調合管理強度以上あればよいと思う。450㎥を150㎥ごとに3つの区画に打設する場合、それぞれの3個採取する。一つの区画をみれば、その平均値は調合管理強度の85%以上しか確認していない。それと比べれば十分だろう。

速さ当り距離

 「距離」=「速さ」×「時間」では、「速さ」が「時間」当たり「距離」と考えるのが普通です。が、「時間」を「速さ」当たり「距離」と考えることもできます。違和感はあるかもしれませんが慣れの問題に過ぎません。時速7キロメートルで5時間進んだ時の距離は、時速1キロメートル(単位速さ)で5時間進んだ時の距離の7倍というだけです。

 違和感があるのは、「距離」と「時間」を先に定めて、そこから「速さ」を「単位時間」当たりに進む「距離」(「速さ」=「距離」/「時間」)としたという言葉を定めた順序に影響されているだけだと思います。つまり、「距離」の単位(km)と「時間」の単位(h)が先にあって、それを使って「速さ」の単位は(km/h)と「時間当たり距離」らしい形になっているというだけのことでしょう。

 仮に「速さ」と「時間」を先に定めて、そこから「距離」=「速さ」×「時間」という順序で定めたのなら、「時間」を「速さ」当たり「距離」とすることに何の抵抗もないと思います。実はそのような順序になっているのが「光年」です。1光年は「距離」の単位で、光の速さで1年進んだ時の距離です。この場合、速さの単位をV、時間の単位をTとすれば、距離の単位はVTとなります。速さはVT/Tで時間当たり距離、時間はVT/Vで速さ当り距離です。全く同等という趣になります。

まだ、アボカドや肉に寿司ネタとして違和感がある人もいるとは思いますが。

名称がないと考えられない。名称があるとそれしか考えられない

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  バカバカしいと言わずに、小6の女の子の疑問に答えてみました。

先ず、「1人あたり7個」が何を表しているか考えるため、問題文の状況を図にしてみます。

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 図は、7個のクッキーが5行並んでいるとも、5個のクッキーが7列並んでいるとも言えます。掛け算は「行」×「列」あるいは「列」×「行」です。簡単明瞭です。図の〇印は「行」の中だろうと、「列」の中だろうと、クッキー1個であることに変わりはありません。「列」の中では「人」に変化したりはしません。

 この「行」や「列」の長さを算数教育では「ひとつ分」と言う専門用語で呼ぶようです。「行」の長さを「ひとつ分」と考えた時には「列」の長さは「いくつ分」という分かりにくい専門用語で表します。難しいですね。

  更に問題になのは、具体的事例では「行」や「列」に名称がない場合があることです。クッキーの例では「行」には「人」という名称があるため、「行」の長さは「一人分のクッキーの個数」と言うことができます。ところが、「列」には名称がつけられていませんので「列」の長さを簡潔に表現するのが難しくなります。

  その結果、「1列あたり5個」の「列」に問題文にある「個」を機械的に当てはめたのでしょう。そうすると問題文に残っているのは「人」だけなので、「1個あたり5人」となってしまうわけです。今の小学校は、小6の女の子だけでなく、小学校の先生や東大卒の人ですら混乱しそうな教え方をしているんですね。私が子供の頃は簡単でしたが。

   人間の思考は言葉に相当、制限されます。名称のない「列」は考えることができなくなり、名称のある「人」しか考えられなくなります。混乱を防ぐには、「ひとつ当たり」などという言葉は一旦忘れて、行列の図を思い浮かべれば済みます。高度な数学になると、日常用語に相当するものがない専門用語が出てきます。その概念をイメージするのは私のような凡人には困難です。しかし、そのような概念を作り出した数学の天才は、イメージが頭の中に先にあるようで、後からそれに名称を付けているのではないでしょうか。ならば、そんなイメージのない凡人が言葉をいくら見ていてもなにも理解できません。

 クッキーの問題でも「列」に名称を付けることはできます。例えば、一人に配ったクッキーにNo.1から7までナンバーを付ければ、「列」は「ナンバー」になり、「列の長さ」は「ナンバー当たりのクッキー個数」になります。

 「列」に名称がつけられていない代表例に「単価」×「数量」=「価格」があります。この場合は、「行」には「数量」という名称があり、「1行当たり価格」を意味する「行」の長さに「単価」という名称があります。しかし「列」には名称がなく、「1列当たり価格」を意味する「行」長さの名称もありません。

 「速さ」×「時間」=「距離」も同様です。「行」には「時間」という名称があり」、「1行あたり距離」を意味する「行」の長さに「速さ」という名称があります。しかし、「列」や「列」の長さは名無しです。「数量」や「時間」も「ひとつ当たり」とすることもできますが、言葉での表現がややこしくなります。

 しかし、行列のイメージがあれば、単純かつ自由自在に考えることができます。天才的な数学者でない普通の子供でもできます。言葉(名称)は思考の助けになる便利なものですが、言葉(名称)がないものは無視してしまいがちになる弊害もあるのじゃないでしょうか。

 

目先のことしか考えられない

  予防接種法は平成6年改正で、義務接種から勧奨接種になりました。その背景は次のように説明してあります。

予防接種制度 について

・ 公衆衛生や生活水準の向上により、予防接種に対する国民の考え方は、各個人の

疾病予防のために接種を行い、自らの健康の保持増進を図るという考え方へ変化。

・ 予防接種制度については、国民全体の免疫水準を維持し、これにより全国的又は

広域的な疾病の発生を予防するという面とともに、個人の健康の保持増進を図るとい

う面を重視した制度とすることが必要。

  それらしく書いてありますが、端的に言えば、行政責任の回避です。「全国的又は広域的な疾病の発生を予防する」から「個人の健康の保持増進を図る」という変化は、行政が責任を持つ社会防衛は止めて、「個人の健康の問題にしたので自己責任でやってね」と言っているわけです。リンク先の資料にも書いてあるように「種痘後脳炎などの副反応が社会的に大きな問題」となったのが直接的原因で、決定的なのは裁判で厚労省の責任が問われたことです。有罪ともなれば、止めたくもなろうというものです。ある意味で、国民の希望に応えたともいえます。

  通常、病気の治療は義務でもないし、医師から強制されることはありません。あくまで患者本人の自由意志で決定します。予防接種もそれと同じ扱いになったわけです。予防接種に伴う被害が生じても、通常の医療裁判と同じように、接種した医師と接種された人の間で解決することになり、国は直接関与しない立場になったわけです。一応、健康被害救済制度はありますが、国の責任は大幅に軽減されました。

  それに対して、従来の予防接種の義務は、個人の予防ではなく、社会への感染の蔓延を防止するという公共目的で行われていました。接種義務は憲法が保証する国民の権利を制限しますので、「公共の福祉」という大義が必要ですし、国しか出来ない仕事です。

 国民の権利を制限というと恐ろしい印象を受けますが、大抵の法律は普通に行っています。例えば、建築基準法は、本来自由に作ってよいはずの個人の敷地内の私有財産について、あれこれ制限します。制限するのは、隣の家が日陰になるとか、出火して延焼すれば、大迷惑だからです。このような問題も、当事者同士で話し合って解決してもらい、国は口出しないというやり方もありますが、関係者が膨大になり、被害と原因の因果関係もあいまいで経験的に巧くいかないとわかっています。個々の解決に任せると、いわゆる合成の誤謬という現象が起こる場合があり、都市問題はその一例で、大抵、スラム化します。

 国防や警察も同様ですが、国民の権利を制限するので評判が悪くなるのが宿命です。規制行政は、しばしば杓子定規な運用もあって苦情が殺到します。それでも、規制を止める例は少ないですが、稀に「そこまで文句言うなら、勝手にしろ」とさじを投げることがあります。記憶にあるのが公共工事の予定価格の事前公表です。予定価格の漏洩が問題になると、秘密保持という行政責任を放棄して予定価格の事前公表をしてしまった自治体がありました。公表した情報の漏洩責任を問われる心配は全くありませんからね。

 予防接種義務の廃止もその数少ない例の一つです。廃止したのは予防接種に害があるからではありません。義務は廃止しましたが、「勧奨」はしているんですからね。「勧奨」でも、接種は行わたので、それでもいいのかしれません。強制しないで済むならそれにこしたことはありません。

  ただ、HPVワクチンに関しては、「勧奨」はしても「積極的勧奨」を止めたため結構な被害がこれから出てくると予想されています。「がん」は健康被害がでるまで時間がかかるので、予防の効果を実感できないのが大きいのかもしれません。

  HPVワクチン同様に新型コロナワクチンでも反ワクチンが喧しいです。しかし、がんと違ってすぐに発症する病気では、効果が見えやすいせいか、HPVワクチンみたいな惨状にならずに済んでいます。遠い将来のことは考えられなくても、目先のことは気になるんですね。私も将棋の三手が読めません。