「説明責任」と「推定無罪」

 このツイートは,昨年7月のことで,pseudoctorさんが批判していますが,,最近,渡辺輝人という弁護士が似たようなことを述べていて,驚きました。(レトリックで本当は驚いていませんが)

続・片瀬久美子氏の事(2017年7月27日の出来事)

安倍政権に無罪推定の適用はない

 この問題はいわゆる「悪魔の証明」ですので,立場がどうであろうと,個人だろうと政府や行政であろうと,無理なものは無理というに尽きます。にもかかわらず,弁護士まで言い出すのは「説明責任」の拡大解釈,あるいは無理解に原因があると思います。

 記憶によると,「説明責任」が言われ始めたころは「アカウンタビリティ」という表現でした。おそらく,その概念を表す上手い日本語訳がなかったのだと思います。私自身,どういう意味であるがよくわかりませんでした。そのうちに「説明責任」という日本語が使われるようになり,分かりやすくなった半面,この言葉が使われる条件が無視され拡大解釈の弊害が指摘されるようになってきました。政府や行政ならば説明不可能なことでも説明しなければならないというのがまさにそれです。無理難題も受け入れよというニュアンスが,全く別の言葉ですが「お客様は神様です」と似ています。

 「説明責任」は、元々会計学の言葉だそうで、「他人の財産を受託している者が管理や処理を正しく遂行したかを証拠を示して説明できるようにしておく義務」のような意味です。つまり仕事を行う義務があるものが,責務を果たしているという証拠を示すことで,行為があったという説明です。不正行為をしないことは,責務のある立場に限らず誰でも求められることですから,わざわざ,一般人には適用されない「アカウンタビリティ」という言葉を使う必要はありません。

 誰でも求められることではありますが,一切の不正はしていないという証明は「悪魔の証明」になってしまうので不可能です。ただ,何らかの不正を働いたという証拠が示されたときには,それに対して反論や否定の説明をすることは出来ます。つまり,追及する側が,最初にボールを投げる必要があるわけです。

 刑事事件の「推定無罪」はもう少し,強い意味があります。検察が何らかの有罪の証拠と確証を得て,起訴をおこなってから刑事手続きが始まります。起訴されたということは,具体的な犯罪の証拠があるわけですが,それでも判決が確定するまでは,無罪と扱うというのが「推定無罪」です。従って,渡辺輝人弁護士の次の主張は論理がひっくり返っています。

 「無罪推定」は刑事手続き上の原則だが、安倍首相は刑事訴追されているわけではないので、この原則は適用されない。また、行政には説明責任があるので、無罪であることを説明しなければならない。

 刑事訴追されていても,無罪と扱うのですから,訴追されていないなら,なおさら無罪と扱わなければならないのは当然です。これは政府や行政でも変わりません。

 くりかえしになりますが,何らかの義務を果たしたという証拠を示すのが「説明責任」です。義務の範囲は確定されているので,説明可能です。一方,何等かの犯罪を犯したという証拠を示すのが「起訴」です。罪の範囲は確定されているので,証明可能です。また,犯罪があったという事実は確定していなければなりません。死体が見つからなければ殺人罪に問えません。行方不明になった人物と言い争いしているところを目撃されていれば非常に怪しいですが,それだけでは殺人罪には問えません。生きているかもしれませんからね。

 さらに,ある罪で起訴し,立証できなかった場合に別の罪を問うことは出来ません。その場合は新たに起訴しなければならないのは言うまでもありません。つまり,確定できない何らかの犯罪をしている疑いなどというあやふやな罪状で起訴はできないということです。これは,まさに「悪魔の証明」を被告に求めることで永遠に裁判は終わらないことになってしまいます。

 おそらく,実際には裁判は永遠には続かず,何らかの罪が見つかるのではないでしょうか。どれほど叩いても埃のでない聖人君子は稀ですから,このようなことが許される世界は恐怖です。現実には,芸能人の不倫をスクープしようと張り込む芸能記者がそれに近いことをしていますが,有名税ということでなんとなく許されています。

 今,野党や報道が行っているのは,不倫のしっぽをつかもうとする芸能記者と大して変わりません。政府の責務を果たしているという「説明責任」を求めているのではなく,「無罪」の証明を求めているわけです。しかも,「起訴」できるような証拠や事実に基づくのではなく,「疑惑」という心証によるものです。

 心証による追及は,一つの証拠が否定されても次から次へと新しい証拠を探し出してくることが可能です。否定されても構わないいい加減な証拠でもよいからです。率直に言えば,言いがかりや嫌がらせです。これを認めれば,行政の遂行を妨害することが簡単にできてしまいます。

 しかし、残念なことに、行政や政治の世界では、言いがかりや嫌がらせが横行しているのが実態です。そのため、疑われような行動はするな、「李下に冠を正さず」、「瓜田に履を納れず」と言われるわけです。

 前述したように,聖人君子が稀なのは,行政や政府も同じでしょうから,追及は続けていけば,そのうち、瓢箪から駒が出る可能性もあります。しかし,その効果よりも,行政と政府機能が阻害される弊害の方が遥かにおおきいと思います。それよりもなによりも,言いがかりや嫌がらせやが公認される世界は恐怖ですよ。