政策の是非を人の過失に矮小化する − 豊洲市場と原発

 元築地市場に居座る市場関係者は、戦術を間違えたのじゃないですかね。地下水汚染や豊洲市場施設の欠陥ばかり強調するものだから、それらの問題がなければ、移転できると言ってしまったようになっています。でも、移転先が未定の時から反対していたってことは、本当の理由は別にあるわけです。市場には過去の複雑な経緯があり、理由を簡単にまとめられるものではないでしょうが、私の独断でまとめると、移転による打撃でしょう。打撃を避けるには、移転阻止が最善ですが、次善の策として、打撃の補償を求めるという二段構えが現実的な対応です。移転阻止の見込みがなくなった段階で次善の策に切り替えるのが交渉というものです。

 しかし、元築地市場に居座る市場関係者は、戦術の失敗によって、移転の見込みがなくなった段階どころか、移転してしまった後でさえ、移転阻止を唱え続け、不法行為を行うはめになっています。市場当事者にとっては全く利益にならない不幸なことで、得をしたのは、現行体制にいじめられる零細事業者という宣伝に利用したい政党や、その関係者だけという結果になっています。

 本来は、移転が経営に及ぼす影響という市場運営政策とでもいうべき問題であったはずが、施設の不備という技術的な問題に矮小化してしまったんですよ。設計事務所の過失のようなことばかり批判した結果、市場業者の生活に直結する市場運営政策はどこかに吹っ飛んでしまいました。
 
 市場業者の生活が苦しくなっても、私にはあまり影響はありませんし、豊洲移転にも賛成ですが、大きな影響がある問題で、反対する事業でも似たようなことが行われています。東京電力福島第一原発事故を巡り、旧経営陣3人が業務上過失致死傷罪で強制起訴された刑事裁判です。

 この裁判は、東電の津波対策に業務上の過失があったと訴えられたものです。業務上の過失とは、その専門分野で論争があるようなもので問うことはできず、当然行うべき判断を行わなかったという必要があります。しかし、記事を読んだだけでも、いろんな見解があり、論争があるように見えます。このような状態で、裁判所が決着をつけることは、専門分野の論争の決着を司法にゆだねるということで非常に危険です。

 という、危惧はあるものの、とりあえず、過失が問えるような判断ミスがあったと仮定して考えてみましょう。つまり、津波対策には異論のない標準的方法があるにもかかわらず、東電は無視するという誤りを犯したと訴えられたと考えるということです。豊洲市場を設計した設計事務所が設計ミスをして施主から訴えられた、というのも同じ構図です。

 原告は裁判にしたのですから、当然そのように考えているでしょう。反原発の私は、このことに違和感を感じるのですね。東電が過失によって事故を起こしたといえるには前提があります。「過失のない原発が存在する」という前提が。自動車の運転に過失があるというのは自動車が認められているということであり、認められていないなら過失もくそもありません。要するに、交通事故などの個人の責任追及と同じレベルの争いになってしまい、車社会を否定できないように、原発も否定することはできません。

 人為的なミスがなく、誰の責任も問えない事故や災害はありますが、それを承知の上で飛行機のような様々な技術を我々人類は使っています。ある程度の被害は受け入れているということです。しかし、許容できない事故というものがあるのなら、事故をゼロにすることはできませんので、そのような技術は使うべきではないでしょう。実際に、医学分野にはその種の禁じられた技術があります。そして、許容できないという判断は、科学的、技術的あるいは裁判で決めるものではなく、社会的合意つまり政治判断になります。

 つまり、原発論争は政治論争であって、科学技術の議論でも、裁判で決着をつけるものでもないと私は考えますが、この裁判は、原発設計のミスに矮小化しているのですよ。

 まあ、現実には、政治闘争に、裁判闘争を使うという戦術は普通に行われています。これは、嫌がらせ戦術とでもいうやり方で、ハニートラップで政敵を失脚させたり、印象操作なども同類です。つまり、政策論争を行うのではなく、盤外作戦で相手の印象を貶めるわけです。言い換えれば、「悪いことだからダメだ」ではなく、「悪い奴がしているからダメだ」です。「罪を憎ます、人を憎む」ですね。「原発はダメだ」ではなく、「ダメな東電の作る原発はダメだ」という戦術です。

 この戦術は、結構有効なのですが、失敗すると「ダメじゃない奴が作る原発ならいい」となりかねません。結局、「誰が作ってもダメ」という必要がありますが、これは前述した「誰の責任でもないが許容できない事故があるかからダメ」という主張に外なりません。しかし、属人的批判ばかりしてきた反原発は、そうはならず、「ちゃんとやれば事故は無くせる。」という非現実的なゼロリスクになってしまいます。

 原発の是非は、政策論争で決めるべきで、原発事業者の設計ミスを裁判で争うようなものじゃないと思うのですよ。議論であって喧嘩ではないと思うのですけどね。