「転向」?踊らぬ阿呆が踊る阿呆になっただけじゃ?

オリンピックの熱狂と「転向」する文学者たち 2020年われわれは冷静でいられるか
辻田真佐憲
http://ji-sedai.jp/series/research/063.html

「私もかなり批判的だった。たかがスポーツではないか。何の為にそんな大騒ぎをするのか」(石川達三)、「自分とは全く無関係なスポーツの行事が、東京でおこなわれ、私はそのあいだ、多少きゅうくつな思いをあじあわされることになるだろう」(菊村到)、「国家社会という批判すべき組織を考える立場から、今度のオリンピック開催に対して、しばしば疑問を提出して来た」(有馬頼義)、「オリンピックに、特に関心があったわけではなかった」(小林秀雄)、「やかましく、イライラした四年間だった」(遠藤周作)......。
 ところが、いざオリンピックが目の前で開催されると、彼らの多くは競技に強い関心を示し、あるいは盛大な開会式に感動し、あるいは選手の敢闘に涙し、あるいは原稿をほっぽり出してテレビにかじりついてしまう。すっかりオリンピックの熱狂に魅せられてしまったのだ。そしてついに、彼らはほとんど口をそろえて「やってよかった」と結論づけるにいたるのである。

 1964年の東京オリンピックの前には、オリンピック開催に対して批判的ないしは無関心だった文学者が、いざオリンピックが開催されると、「やってよかった」と転向してしまった、と辻田真佐憲氏は述べています。でも、これって転向というほど大層なものですかね。引用した文学者の言葉のほとんどは、批判というよりも単なる無関心です。オリンピックとやらは迷惑なだけだと思っていたけど、実際にみてみると意外によかった、という程度と思います。

 辻田真佐憲氏がオリンピックに批判的なのは、ナショナリズムを喚起する危惧故です。その例として石原慎太郎をあげています。オリンピックのせいで石原慎太郎民族主義に目覚めたのか疑問もありますが、仮にそうだとしても他の文学者も転向したとは言えそうにありません。無関心な迷惑行事から、エキサイティングな娯楽と認識が変わっただけでしょう。

 もし、オリンピックのような国対抗の行事がナショナリズムを引き起こすというのなら、ラグビーのワールドカップも問題です。サッカーのワールドカップも同様です。そのほか、陸上競技やスキーをはじめとして、国対抗の国際大会も毎年開催されていますが、これも冷ややかに眺めるべきでしょうか。国対抗ではありませんが、国民体育大会はどうでしょうか。都道府県のセクショナリズムを引き起こさないでしょうか。それ以上に、クラス対抗の運動会が子供にセクショナリズムを植え付けないか心配しないでよいのでしょうか。スポーツに限らず、囲碁、将棋のような勝負事は戦争のシミュレーションにならないでしょうか。国際映画祭、ノーベル賞数学オリンピックなども、国の対抗心を煽る恐れがないでしょうか。いやいや、会社勤めも企業対抗戦のようなものですから、禁止しなくてよいのでしょうか。さらに・・・

 悪ノリはほどほどにしますが、必ずしも杞憂とも言えません。サッカーが本当の戦争を引き起こしたこともあるくらいです。特に団体競技の連帯感はナショナリズムとの親和性が指摘されます。しかし、連帯感そのものが悪いものかというとそうではありません。平和的な作業や行動でも連帯感は必要ですからね。連帯感に限らず、努力や勤勉などという美徳もナショナリズムと結びつけば問題ですが、それ自体に問題があるわけではありません。

 連帯感は良くも悪くも働きます。協調によって集団のパフォーマンスを向上させれば結構ですが、他の集団を蔑視するようになればよろしくありません。不幸にしてスポーツにおける連帯感が対戦相手の蔑視につながることもあり、その最悪の結果がサッカー戦争です。しかし、一般的にスポーツでは対戦相手に敬意を払うことが求められています。オリンピックがナショナリズムに利用されることもありますが、それは利用されただけでオリンピックそのものの問題とはいえないでしょう。対戦相手への敬意を失わなければ問題ありません。

 ということで、オリンピックがナショナリズムに利用される恐れはないとは言えないので、注意は必要です。だからといって冷めた目で冷ややかに眺め無ければならないということも無いでしょう。お祭りは楽しまなければ無意味です。にもかかわらず、オリンピックを斜に構えて醒めた目で眺める人は、1964年の東京オリンピック前の文学者をはじめとして結構います。それはなぜなんでしょうか。私の想像では、ナショナリズムの心配とは無関係です。オリンピックが非常に大きなお祭りで世間が盛り上がっているからだと思います。興味のないことで、周りが盛り上がっていると、取り残されたような白けた気分になります。ポケモンGOで世間が盛り上がると、無関心な人はくさしたくなるようです。さらに、何かと生活に影響がでてくると、無関心で楽しむこともできないお祭りは、ただただ迷惑なだけです。国体程度ではあまりそういう影響はないのですが、開催ご当地では迷惑な影響を受ける人もあって、そういう人は国体も冷めた目で見ています。単にそれだけのことじゃないかと。お祭りなんかやっている場合かという意見もありますが、踊る阿呆に、踊らぬ阿呆、同じ阿保なら踊らにゃ損損ともいいます。