少し怖くなってきた

 相模原事件の植松容疑者は特異な人格です。よって,障害者施設の労働環境やら,精神的障害者の措置入院のありかたという社会問題を論じる際にこの事件は参考にならないと考えます。この様な事件の再発防止を考えてもあまり役に立たず,むしろ害の大きい予防策が提案されるという記事も書きました。しかし,当然といえば当然ですが,世間は私の思いとは無関係に,様々な提案や意見で溢れており,悪い意味で社会問題化し始めてしまったようで気になってきました。

 植松容疑者の優生思想に賛同する声は予想外に多く,また山東昭子氏のGPS発言など,犯罪のおそれのある人物への予防措置を求める声も多くあります。前者は植松容疑者と同じ考えで論外ですが,後者も「社会的に害を及ぼす人間は抹殺するか,隔離してしまえ」という優生思想の親戚で,同じ穴のムジナ状態になっています。

 植松容疑者賛美者は「よくやった」という称賛をしていますが,それは19人という大量殺人故ではないでしょうか。昨年,明らかになった介護付老人ホームの入居者転落事件では,数人の犠牲者がありましたが,今回のように賛同者が湧いて出るという現象はありませんでした。「人を一人殺せば人殺しであるが、数千人殺せば英雄である」という言葉が思い浮びます。

 山東昭子氏バージョンの準優生思想になると,露骨な優生思想のように一笑に付されない可能性が高まります。GPSがそう簡単に受け入れられるとは思いませんが,隔離の意見は無視できないほどあります。それだけに留まらず,普通の人も同根の考え方をする場合が多いです。例えば,被害者感情に配慮し凶悪犯厳罰化の世論,移民排斥等々。これらに共通するのは,善良で優秀な自分たちと凶悪で劣等な異人種がはっきりと区別できるという錯覚です。

 もちろん,共通点が有ると言うだけで,これらは全然違うものです。植松容疑者レベルの優生思想は問答無用で否定して構いませんが,議論の余地があるものもあります。ただ,それらはグラデーションをなしてつながっています。ですから,自分は優生思想とは無縁の健全な思想だと錯覚していると,徐々に優生思想に染まってしまわないとも限りません。優生思想の特徴は優等と劣等が明確に区別できるというところですから,優生思想とは無縁であるという錯覚はすでに優生思想に片足を突っ込んでいると思った方が良いでしょう。

 当然ながら,自分自身にも優生思想の要素はあります。このようなブログで批判的な記事を書くのは,物事が分かっている自分が,馬鹿な連中をけなして満足したいという動機が9割方を占めます。そして馬鹿を一掃してしまう空想に浸ります。それでも,残り1割で批判している相手と自分は同じ人間であるという意識を維持するように心掛けています。(時々,感情が爆発すると難しくなりますけど)馬鹿とは共存して永遠に付き合って行かなければならないのです。時々は自分が馬鹿役を演じます。

 基本的に自分とは全く違う宇宙人のような相手なら,批判することも怒ることもありません。例えば,野良犬に吠えられた時に,失礼だと怒ったり,礼儀を野良犬に説いたりしません。一方,人間相手に批判するのは,それが自分自身にも係わっているからです。自分には係わりのない極めて特殊な事柄には野次馬根性以上の関心は私にはありません。例えば植松容疑者という人間の心理についてはどうでもよいと思っています。彼は私にとってほとんど野良犬に近い存在なのです。(ただし,今の時点という保留は尽きます。今後,彼の病理が明らかにされ,我々にも関係することが出てこないとも限りませんので)

 これが,植松容疑者の賛同者あたりになると,無関心ではいられません。彼らは植松容疑者を称賛はしても,自分自身が同じような行為をする可能性は少ないと思います。他人にやれやれと囃したてながら,自分はしないというのは,私にも共通する性質です。被害者感情,復讐感情になると,制御できないほどのレベルで自分自身にもあります。恐怖にかられて過剰な予防をしてしまうなんてことは頻繁にあります。従って山東昭子氏の発言には大いに関心があるのです。

 優生思想は別に頭がおかしい人の専売特許ではなくて,ちょっと昔には普通の人々から支持されていました。私自身,「優生思想」という言葉を知った小僧の頃は,なにが問題なのかよく分からなかったくらいです。だからこそ,実際に行い,悲惨な結果に懲りるまで,「これはダメだ」と学べなかったんじゃないでしょうか。少し考えれば否定出来るというほど簡単なものではないと思います。そして,学びはしましたが,人間は健忘症でもあります。
 
 ということで,感情を揺さぶるような事件であればあるほど冷静に対処する必要があると思います。野良犬に噛まれたからといって,野良犬に行う様な処置を人間にはしないように。

【補足】
 一旦書き終えて,「植松容疑者は野良犬みたいなもの」という考えこそ優生思想ではないかと突っ込まれそうな気がして来ました。そこで,補足すると,植松容疑者は野良犬なみの行為をしてしまいましたが,人間として対処しなければなりません。それじゃ生ぬるい,感情的に腑に落ちないという声が聞こえてきそうですが,彼は稀な例外であって,感情的に腑に落ちなくても仕方ありません。彼を野良犬の様に扱うことで,他の人間も野良犬のように扱うことになる方が危険です。社会的ルールは個人的復讐感情や恐怖による過剰防衛行為を制限するためにできている面が大きいです。従って,そのような感情から腑に落ちないというは仕方ないと思ってます。