被害者の人となりや人生



 渡辺志帆氏の最初のツィートは,被害者の人となりや人生によって事件の重さが変わると言ってしまっています。大した人生をおくっていない人間を殺す罪は軽いといっているようなもので酷い発言です。ただ,深い考えもなく軽く発してしまった失言のような気がします。というのは補足ツィートを読んで感じました。

 補足ツィートでは,「議論が深まればと思います」と議論を放りだしてしまいました。これは,深い考えがない事を白状したようなものだと思います。遺族の意向を顧みないでいいと言うつもりはないのに,「遺族からの強い要望」を却下するのは無理がありますし,「匿名発表だと事件の重さが伝わらない」とは「匿名では事件が軽くなる」の意味ではないと言い張るのも苦しいです。

 仮に議論を深めるとすれば,言論と報道の自由との兼ね合い,社会的問題をあぶり出す報道の責務,健常者と障害者で扱いを変えない平等性のようなことを考えることになります。例えば,障害者だから実名公表しないのは,障害者が恥ずかしいものであるという差別の現れであるという意見もあります。これに対して私は次のように考えます。

 恥ずかしいと思うか思わないかは当事者の問題だ。私自身のことを言えば,一般論として裸体が恥ずかしいものとは思わぬが,自分の裸を晒すのは恥ずかしいし,秘密にしたい性癖もある。現実問題として,世間に偏見が存在している限り恥ずかしくないことでも世間に知れれば実害が生じることもある。「恥ずかしいことでないなら,こそこそしないで堂々と公表すべきだ」などという輩は大抵偏見をもっていて本質ではないそこを攻撃してくる。要するに,本質に係わらないどうでもよいプライバシーなのだ。

 書いているとヒートアップして来ますが,渡辺志帆氏はそんなことに関心は無かったように思います。そういう議論は皆さんで深めてくださいと自分でやる気はなさそうですからね。では,関心は何処にあったのでしょうか。私の想像では,読者ののぞき見趣味を満足させるストーリーという営業上の課題です。人生のエピソードが無かったり,匿名では読者に受けません。

 報道には,プライバシーをのぞき見するゴシップもあります。ゴシップの裏返しが美談で,結婚式の新郎新婦を紹介する挨拶みたいなものです。ゴシップは深刻な被害者を生み出すこともありますが,美談は笑える被害者を生み出します。

 笑える被害者といえば,中学生の時の思い出があります。私は陸上競技部に入っていましたが,1年先輩が警察から表彰され,新聞記事になったことがありました。どんなお手柄だったかもう忘れてしまいましたが,新聞記事に書かれているその先輩のプロフィールは,典型的な優等生でした。その中でも「陸上競技部で活躍」というフレーズが目に付きました。真実はといえば,その先輩は部内ではさえないキャラクターでした。

 当然ながら,その記事は部内で話題となり,その先輩は冷やかされたのでした。新聞も罪作りです。よくある話ですけど。大昔の新聞には,まるで小説みたいな美文調の記事があります。まだその伝統が残っているようですね。

【7/29追記】

 「被害者一人、一人の尊厳と生きた証し」とは,感動のストーリーが欲しいということでしょう。現実には,取り立てて言うこともない平凡な日常があるのが普通で,それで十分です。「重度の被害者19人」からは何も感じない想像力のなさの方が問題。購読者の資質も問われ,記者だけの責任ではないと思うけど。