偉大な何物か

 次のような「偉大な何物か」は「神様」の地位を貶めるおそれがあります。

 知性を持った生物のような複雑なものが自然発生するとはとても考えらず,知性を持った「偉大な何物か」が創造したに違い無い。

 この考えに沿えば,「偉大な何物か」はなおさら自然発生するとは考えられませんから,さらに格上の知性を持った「偉大な何物か」が創造しなければなりません。その「偉大な何物か」もさらにまた格上の知性を持った「偉大な何物か」が・・・となってキリがありませんが,まあそう言うことになっているとしましょう。延々と続く「メタ偉大な何物か」は人間とは直接関わらず,取りあえず係わりがあるのは最下位の「偉大な何物か」で,それが「神様」です。「神様」は「偉大な何物か」の序列の一番下っ端の被造物に過ぎなくなってしまいました。

 というような空想はさておき,現実の宗教は「メタ偉大な何物か」などは考えません。アプリオリに「神さま」は存在しているとして,その誕生について詮索するようなことはしません。そこさえ受け入れてしまえば,様々の事柄を神さまの仕業として簡単に説明できたような気になって便利なのです。

 しかし現代では,より説得力のある科学が様々な事柄を説明してしまったため,説明者としての神さまの権威は下落してしまいました。そこで,宗教は科学が説明できるような下世話な事柄からは手を引き,心の問題に専念し,洗練された宗教へと変化しています。いずれ心の問題も科学的に説明できると私は予想しますが,宗教の役割は無くならないと思います。なぜなら,もはや宗教は説明の理論ではなく,実践の方法だからです。科学は,信じれば幸福を感じる理由の説明を行えるかもしれませんが,人々を幸福にする実践はしません。それを行うのは宗教であり,幸福になるための信心の具体的方法を提供します。科学が冶金の原理を説明したからといって,鍛冶屋が失業しないようなものです。科学的説明が可能になることで,鍛冶屋はより洗練された工業に発展しました。

 「偉大な何物か」は説明の理論です。しかも,あまりに素朴な理論です。原始宗教の神話が用いていた理論であって,現代の心の問題の実践に特化し洗練された宗教では用済みの理論です。生命は如何にして生まれたかという難問も,神さまが造ったと簡単に説明出来ます。神さまが如何にして造ったかは説明されませんが,神さまの御業を知ろうとするなど恐れ多いとして原始人相手なら説明を回避できます。つまり,正確に言えば,説明の理論ではなく,説明をせずに説明したように見せる方法ですが。

 現代の宗教は最早このような方法を必要としていない筈ですが,「偉大な何物か」は宗教が自然現象も説明していた時代への退行ではないでしょうか。