テロと戦争の違い

■共有の法律が無ければ合法も違法もないが
 法律クイズなるものが有ります。例えば「我が家に伸びてきた隣家の柿の木の枝に実った実を取ったら窃盗か?」。法律クイズには見解が分かれるものもありますが,一応の正解が有ります。でも,法律が無ければ,合法・違法を決めることはできません。というよりも,問自体がナンセンスです。でも,法律は無くとも,共有する道徳のような文化があれば,道徳的か非道徳的かの判断は出来ます。では,共有した文化や道徳すら無いのなら、何が判断できるのでしょうか。共有しているのが自然法則だけだったらどうでしょうか。

 法律や道徳によれば善悪の判断が出来ますが、自然法則には善悪の概念が有りませんので、不可能です。それでも、どのような行為が紛争を引き起こすのかのような問いなら答えを出せそうです。紛争は人間関係の現象ですので、厳密には自然法則だけでは無理ですが、人間を生物の1種に過ぎないとみなせば、近似的な答えは出るかと思います。更に、紛争を頻繁に引き起こす人間の集団と、そうではない集団のどちらが生き残りやすく、繁栄するかということも分かりそうです。更に、紛争のどのような裁定法を採用する集団が生き残りやすいかということもです。

 自然法則で(近似的に)分かるのは、ここまでです。生き残りや繁栄が良いことなのか、悪いことなのかは文化によってしか判断出来ません。ただ、生き残りを良いと考える文化は生き残りやすいということは自然法則でも言えそうです。これは進化論の根拠のない拡張で、アナロジーにしか過ぎないのかもしれませんが、現実的に生き残りや繁栄を否定する文化はなさそうなので大勢として大きく間違ってはいないでしょう。

 自然法則には善悪の概念は有りませんが、異なった善悪の概念を有する集団のどちらが生き残りやすいかの判断は出来る可能性があると思います。ただ、現在の知見で出来るかというと無理かもしれませんが、予想ぐらいはできるかもしれません。もちろん、結果は条件次第で変わり、唯一の答えがあるわけではないでしょう。生物だって、無数の種が生き残っていて、優勢な種も変化していきます。それでも絶滅する種もあります。

■共有の文化が無ければ、テロの善悪もないが
 テロを認める文化と認めない文化が衝突したとき,どちらが正しいかは判定出来ません。もちろんそれぞれの文化は自分が正しいと判定しますが、その判定のどちらが正しいかを判定する共有の文化は有りません。しかし,どちらの文化の方が繁栄しそうかという判断を自然法則で考える事は出来そうな気がします。ただし出来るとしても,繁栄が良いか悪いかも文化次第ですからそれで決着が付くというものでも有りません。それでも,テロ文化も繁栄を望んではいるようなので,考える材料にはなりそうです。ではどちらの文化が繁栄するのでしょうか。残念ながら私には分かりません。もっと頭の良い人に考えてもらう必要があります。

 ここまでの話で、曖昧にしてきたことがあります。テロとは何かです。少し言いかえると、テロと戦争の違いです。というのはテロを認めない文化も戦争は認めている場合が殆どだからです。仮に一切の武力を認めない文化とすべて認める文化の衝突ならば、武力の定義さえあればよく、テロの定義は不要です。しかし、テロは認めないが戦争は認めるというのなら、その違いを明確にしなければなりません。 

■本質的な違いが無くても,現実的な扱いが異なることはある
 「テロと戦争の違い」で検索してみると,結構多くの人が興味を持って質問しています。誰しも疑問に思っている事柄だと分かります。それに対しての回答は様々です。この疑問が「テロは悪で戦争が善なのは何故か」というのなら,上述したように私の考えでは答えは有りません。そして,多くの疑問への回答も善悪を判断できる様な違いを述べているのではなく,手続き的な違いを述べているだけのものが多いです。

 説明で多いのは,宣戦布告という手続きに則って行う武力行使が戦争で,非正規軍による武力行使がテロという形式的なものです。手続きの根拠は国際法です。武力の内容の違いについて述べた説は見あたりません。それはそうでしょう。爆弾テロで市民を殺すのと,市街地爆撃で市民を殺すことに内容の違いがあるとは思えません。そして,この手続き的定義が現実に機能しているかというと,現代では機能していないように見えます。例えば,米国は宣戦布告をせずに武力行使を度々行っています。チョムスキーは米国の定義したテロを米国自身が行っていると指摘しています。予告テロは戦争かという疑問も浮かびます。現実には,手続きを無視した武力行使もテロになったり,ならなかったりします。

 次に,もう少し役にたちそうな違いの説明が有ります。主権国家武力行使が戦争で,それ以外の集団の武力行使がテロというものです。これも武力の内容ではなく,武力の行使者で判断してます。これは,殺人と死刑の関係と似たところがあります。国が行えば死刑として認められるが,個人が行えば殺人であり認められません。行為の内容に違いがあるのではなく,行為者に違いがあるのです。

 行為者が明確に区別出来るのであれば,この方法は有効です。多分,死刑は国家の秩序維持のために行うものですが,国民が勝手に私刑を始めたらかえって無秩序になるだろうと,分かるからです。ただし,国家が既に存在している必要があります。残念ながら国際社会には統一的に秩序を維持する国のような権力がまだ存在ません。現実には,各国は世界の秩序維持のためにボランティアで戦争をしているのではなく,自衛のためだと言って行います。犯罪者を処罰してくれる政府が存在しないので自衛せざるを得ないだけです。例外的に米国は自衛ではなく,世界の秩序維持のための警察気取りにも見えますが。

 ここで,問題は自衛戦争主権国家しか認められないのは何故かです。それに主権国家と認めるのはだれかという疑問もあります。存在しない世界政府が認定することは出来ません。むしろ,主権国家以外の集団のほうが武力の必要性が有ります。例えば,独立したい地域,圧政に苦しみ革命を起こしたい集団,占領下で主権国家に復帰したいパルチザンなどなどです。

 私が思うに,主権国家だけ戦争が認められるのは,過渡的な処置です。何に至る過渡的状況かというと,世界政府が出来て,各国から武力が取り上げられた状態に至るまです。国家が形成されるまでの紛争は当事者同士で解決するしか有りません。話し合いで解決すれば良いのですが,武力で決着する場合が多くなります。武力行使は勝者の被害も大きいので,しないですめばそのほうが得です。そこで,当事者同士の武力解決の代わりに第三者の武力を背景にした裁定に従う方法に移っていきます。第三者の武力は十分大きい必要があります。さもなければ当事者が裁定に従わないからです。そのような過程を経て最終的に一人の裁定者に統一されれば国家統一です。つまり,当事者間の小さい武力行使を大きな武力を背景に無くせば,武力の総量は減って,当事者の得でもあることになります。また、大きな武力が行使される頻度も少なくなります。なぜなら大きな武力に逆らうのは得策ではないからです。

 武力が統一された暁には,その武力行使の権限を持つ地位に至るために武力を行使出来ない,というシビリアンコントロールにしておけば,武力の暴走は防げ,総量を減らすという目的は維持できます。それでも,国家が出来るまでや、国家の交替には,大抵武力が関与しています。日本も例外ではありません。

 過渡的な状況では,主権国家間の紛争を裁定出来るだけの武力の背景が有りませんので,当事国同士の戦争で解決するしか有りませんが,国内の小さな武力は主権国家の武力を背景に押さえられています。このようにして,武力行使の総量が少なくなっていく過渡期が現代だと思います。武力の行使が無ければ直接的被害も無くなりますし,武力準備の経済的負担も減るので繁栄に効果的です。

 以上のようなことから,テロとはより大きな武力で抑えつけられる可能性のある小さな武力行使だと言えます。つまり、主権国家という行為者による区別は一見すると、定性的な定義のようですが、実際は程度問題であって、テロと戦争に本質的な違いはないのではないでしょうか。本質的な違いはなくても、押さえつけられるのですから、扱いには大きな違いが出ます。結局、テロは押さえつけられるもので成算はあまり無いように思えます。それは犯罪が割に合わないのと同じようなものではないでしょうか。「テロは戦争ではない,犯罪である」とよく言われます。これは、テロが認められた戦争から認められない犯罪への移行期にあり、早いところ移行を済ませたいという希望の表れに見えます。

 ただし,歴史的には武力の統一化に向かう一方通行とは限りません。帝国が分裂し,戦国時代に戻る場合も度々有ります。現実は複雑ですので,そう言うことも起こりますが,大きな流れとして武力の統一化が進んでいるとみて良いでしょう。武力の統一化が進むのは,経済の統一化にも都合が良いことが有ると思います。鎖国経済よりも,より広い交易を行った方が経済的な繁栄に繋がることは,ほぼ経済学の定説だと思います。テロ集団も世界と縁を切った鎖国を目指しているのではなく,彼らなりの統一世界を望んでいるはずです。その過程で武力を使っているだけで,歴史的には主権国家も同じことをして来ています。とはいえ,現時点ではせっかくテロのような小規模武力を抑制できるようになったのに,今更、戦国時代に戻されてはかないません。主権国家は許されないテロとして取り締まるだけだと思います。主権国家に住む私もテロは受容できません。あくまで主権国家で暮らしているからだけですが。

■もし、主権国家に住んでいないなら
 テロの土壌や原因については解決すべき問題が多くあると思います。そのような問題は個別具体的に考える必要があり,上述のような大ざっぱな考察は役に立たないと思います。個別具体的なことは、現地に暮らしていない私には実感できません。ただ,その解決法としてテロは上手く行かないと思うのは前述の通りです。押さえつけられる可能性が高いからです。ただし,伝統的な爆弾のような武力以外の工夫で,正規軍の武力を無力化できる可能性もあります。先のことは分かりません。そうなったら、私は節操なく振舞いたいと思います。節操とは道徳的な言葉で,道徳は価値観を共有する社会維持のため極めて大切なものですが,文化を乗り換えることも可能です。それを批判出来るメタ文化はありませんから。