アマチュアは命を賭けやすい?

羽生結弦はなぜ滑ったのか?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kataokahidehiko/20141110-00040627/

真意は知る術もない。それが「何か」など私にはわかるはずがないが、開拓者や冒険家、宇宙飛行士らに通ずるような「命よりも大切な何か」の存在を私は感じた。

 命をかけて挑戦するのは、挑戦しなければ命より大事なものが失われるからと考えれば、十分に打算的です。現代では命より大事なものが失われる機会が少ないのですが、大昔には結構ありました。唐突ですが思い出すのは、ちばてつやの「紫電改のタカ」の最終回。特攻に疑問を感じる滝城太郎が特攻に出撃する場面です。無駄な戦いとは思うけど、空襲を受けている日本本土の被害を少しでも減らすためと決意する感動のラストシーン。子供の私は涙が流れそうになりましたよ。つまり、日本本土の家族の命が、自分の命より大事だと考えたというわけです。実は、この程度のことは虫でも行いますけど、それを知ったのは大人になってからです。

 戦争という極端な例から、スポーツの世界に戻ると、オリンピックは4年に1回しか開催されません。オリンピック出場を目標にしている選手は、怪我をしていても選手生命を賭けても選考会を目指すでしょう。その選手にとって、オリンピックに出場できない選手生活は無意味だからです。オリンピックがそんなに大事なのか疑問に思う人から見れば、馬鹿げて思えますが、その選手にとっては自然な行為だと思います。

 そして、(日本の)世間一般的にもオリンピック出場は大事なことだと思われています。最近はオリンピックもアマチュアかプロが分からなくなりましたが、アマチュアの色が強かった昔は特にそうでした。アマチュアは試合数が少ないので、無理しても出場しなければならない場合が多いのです。例えば、高校野球は1回負ければお終いです。ですから、肩を壊そうが、選手生命を絶たれようが出場しようと感張ります。しかし、プロを目指す選手はそんな無茶はしないと思います。監督もさせてはいけません。更にプロになれば、年間数多くの試合に出なければなりません。総ての試合に命をかけていたら、数試合で引退必至です。数試合は極端ですが、短くても太い選手生活を過ごしたいという選手は無茶をします。記録を目指し、長く続けたい選手は計画的に体調管理をします。

 羽生結弦選手の場合は、選手生命だけでなく本当の生命の危険もあったのですが、その1試合で成績を残せないのなら、その後の人生に意味はないという覚悟なら出場するのも理解出来ます。本当に意味がないのかは疑問ですが、それは本人の人生観だから周囲がとやかくは言えません。(ただ、本人が勘違いしていて頑固になっているだけのこともあるので、とやかく言った方が良い場合が多いとは思います。)例えば、モータースポーツは毎レース命を賭けているようなところがあります。昔のボクシングもそうでした。これらのスポーツでも安全性が改善され、昔ほど命を賭けている感は有りません。その辺の変遷が感じられるのが、ジェームス・ハントニキ・ラウダのライバル関係を描いた映画「ラッシュー/プライドと友情」でした。やんちゃで昔のレーサーのイメージのジェームス・ハントと近代的で安全を重視するニキ・ラウダ。(子供のころ、事故で負った火傷の傷跡の残る顔のニキ・ラウダを雑誌で見た記憶があります。)

 プロスポーツはおしなべて安全を重視する方向に向かっています。生活の為行う面が強いので、命を賭けるというのは矛盾めいているからです。プロスポーツでも、滝城太郎のように自分のためでなく、家族のためなら命を賭ける場合も多いでしょう。日本では少ないと思いますが、貧困が深刻な国ではそういう場合も結構あるように見えます。

 日本は裕福なので、プロスポーツに命を賭けることも少なくなっていますが、アマチュアの世界ではまだ残っているのではないでしょうか。アマチュアスポーツは由来が貴族のスポーツですから、実利的な目的ではなく、「崇高な目的」めいたものがあって危ない臭いが残っています。フィギュアスケートは純粋にアマチュアではないかもしれませんが、高校野球などの学校教育の場面やオリンピック種目では時代錯誤的に残っている可能性がありそうです。これらはファンもアマチュアで感動を求めますから。