負けました

 将棋では、投了の瞬間に「負けました」と言いますが、あれはなかなか厳しいですね。投了のタイミングを失って、プロでも詰みまで指してしまうことが稀にあるようです。さすがに、詰みを認めないプロはいませんが、仮に認めずに指し続けると反則負けになるそうです。禁じ手に「自玉を相手駒の利きにさらす手」というものがあるからです。」詰みを認めないと、この禁じ手を指すしかなくなるので、その瞬間に反則負けというわけです。慣習的に実際に玉を取る手は嫌うため、その前の禁じ手で終局としているわけで、美学を感じます。しかし、美学もへったくれもないアマチュアのヘボ将棋では玉を取られるまで自分の負けに気づかないのも茶飯事です。

 アマチュアのヘボ将棋と同じ状況なのが、政治論争やネット上の議論です。「負けました」なんて潔い言葉はほとんど見かけません。玉を取られていても、取られていないと言い張るどころか、「玉をとるのは禁じ手だ」とまで言い出す場面すらあります。おまけに、公式審判も存在しません。ただ、聴衆という非公式審判は存在しますので、この種の議論では聴衆に訴えることになります。クリントンとトランプの討論も絶対に「負けました」と言うことはなく、勝ち負けは聴衆が判断するだけです。

 したがって、議論では聴衆が勝ち負けを判断したと思える時点で切り上げるのがきれいです。ところが、私は議論でもヘボ将棋の癖が抜けず、詰みまで指してしまう傾向があります。「負けました」と自分は言いたくないのに、相手には言わせたいという身勝手な性根なのでしょう。これもまた、聴衆からみれば、くどくて見苦しいだろうな。