芸術の観客

 前のエントリーで芸術のエキスの抽出なんて書いたのだけど,これって心身二元論みたいです。肉体から精神を分離して,「ほら魂とはこれだよ」と示すような感じです。もし,それが可能なら肉体や脳みそは何の為にあるかってことになりそうです。まあ,別に無くても良いけど,有った方が便利という程度のものなのですかね。魂だけで存在してコミュニケーションがとれるなら,むしろ肉体は邪魔で不便じゃないかという気もしますけど。もちろん,概念として記述することは出来ますが,二元論の魂というのは概念ではなくて,肉体が無くなっても存在している実体のイメージです。

 独立して存在出来る実体としての芸術のエキスなるものを空想したとしても,実際に実現した芸術家はいません。タブローから動画になったり,絵画表現がパフォーマンスに変わったりしても,媒体としての作品はどうしても必要ですから。媒体の構成や関係性,経時変化などが情動を刺激するわけです。ただ,この媒体に不必要で無駄なものもあるとしたら,それを取り除けばより本質的なエキスになるのではないかと考えて,様々な現代芸術が試されのではないでしょうか。そしたら,何かが生まれたりしたんだけど,それは元の芸術とは別物になっちゃたんですね。芸術家はオリジナリティーを尊重しますので,それはそれでもてはやされましたけど。芸術の抽出ではなく,別の芸術スタイルを生み出したというだけでした。

 普通の評価の定まった芸術品は何かを取り除いても,加えても質が落ちると見なされます。つまり,最良の完成状態なのですから,エキスの抽出は出来ない筈なのです。媒体は既にエキスになっているんです。媒体ではなくて,概念こそ芸術とするコンセプチュアルアートというものも有りましたが,概念が情動を刺激するのか非常に疑問です。それは芸術ではなくて,芸術の説明に過ぎないのではないでしょうか。では,現代芸術家は一体何を考えていたのでしょうか。多分,彼らがもくろんでいたのは,芸術の変革ではなくて,観客の変革だったのではないでしょうか。長い歴史の中で,芸術も様式化されたり,流派や作法のようなものが出来上がってきました。これは芸術をより楽しむために有効ではありましたが,弊害も生じました。それだけが芸術であるという観客の誤解です。芸術は,身の回りの至る所に存在していますが,見えなくなってしまったのです。

 このような観客の意識改革運動であれば,別に新しい芸術品を創作する必要はありません。そこら辺に転がっているものを示せばよいのです。そして,実際に示しただけの芸術が現れたのですが,観客の方が一枚上手でした。単なる例示として示したサンプルを唯一無二の骨董品として有り難がったのです。様式や作法や伝統は根強いのです。例えばウォホールの限定300枚のシルクスクリーンが高値で取引されたりします。これは完全に骨董品の扱いです。文学作品の初版本が高値で取引されるのと同じ現象です。初版本だろうと,文庫本だろううと,書かれている情報は同じで芸術としての価値に違いは有りません。初版本の高値は芸術とは別の価値に付けられたものです。

 ややこしいのは,骨董趣味も芸術の一種なのですね。元々のオリジナルの芸術的価値とは違うところに情動を動かされるのなら,それもそれで芸術です。レッテルや符合にも感動出来るほど妄想がたくましいのが人間です。フェチシズムを芸術と認めるなら,骨董趣味も芸術です。ただ,それは少しレイヤーの違う芸術です。レイヤーが違うといっても優劣が有るわけではありません。伝統的な芸術も自然のコピーのようなものですが,観客は元の自然には興味が無くても,コピーの芸術に感動したりするのです。

 ウォホールは少し異質ですが,ポップアートに分類されます。ポップアートとは作家性のないポップカルチャーに注目したものです。ところが,ポップアーティストという作家に観客は注目してしまいます。スーパーにならんでいる商品のパッケージを居間に飾っても良い筈なのですが,観客は限定300枚のウォホールの版画を飾りたがります。

 赤瀬川源平さんも,作家性を無くすために「芸術ではない」と嘘をついてパフォーマンスを行いました。でも,作家が行っていれば観客はそこに注目して「芸術じゃないのか?」と疑いの目をむけるのですね。そのようなことが「東京ミキサー計画」に書いてあります。なお正確にいうと,「芸術」ではなくて「現代芸術じゃないのか?」です。「わけの分からんことをしているが,あーなるほど現代芸術だったのね。」という感じです。要するに観客の方が上手なのです。

 現代でも現代芸術と呼ばれるものは生き残っていますが(変な言い回しだな),私の見るところ観客の意識改革を図ったものではありません。新しい様式の芸術品ではありますが,伝統的な芸術といえます。伝統的なものこそ芸術の本筋だと思いますが,観客の意識改革を図るというのは芸術周辺の運動であって,芸術そのものではなかったと思います。

 では観客の意識変革はどうすれば良いかですが,その一例が千円札裁判以降の赤瀬川源平さんの活動だと思います。作家性を排除するには観客になればよいのであって,トマソンがその例です。そこには骨董品の価値観が入り込む余地は有りません。赤瀬川源平さんの文学も同じようなところがあります。壮大な物語を構築した文学作品は現実には存在しない創作であって,それそのものを観賞する芸術品です。作家性も付随します。一方で,赤瀬川源平さんの文学作品は,日常に潜む現実の芸術を説明しているだけなのです。ただ説明が非常に上手いのでありありと感じることができます。ですが,オリジナルの現実の芸術に接する感動にはおよびません。作家性も希薄になります。創作者に比べれば,発見者の権威や作家性は弱くなります。発見者は観客だからです。

 赤瀬川源平さんは作家が作家性を捨て芸術発見活動を行った稀少で偉大な存在だったと思いますが,そもそも作家性のない大衆は普通に情動を刺激するものを探し求めています。オタクカルチャーやカワイイカルチャーの類です。ただ,これらも油断しているとすぐに骨董品カルチャーに席巻されてしまいます。アイドルやスターが生まれるのはその兆候でしょう。少し歴史が出来るとヴィンテージジーンズなんてのも出現します。