盲点?

マツコ・デラックス 日本における「男女平等」の盲点に苦言
http://news.livedoor.com/article/detail/9406453/
男女平等についてマツコは「男の世界に合わせられる女の人じゃないと平等には結局ならないもんね。女の感性のままで勝負しようと思ったら、相当無理だよ」と苦言を呈した。

 盲点をついた苦言にも見えますが、「女の感性のままで勝負」というのは微妙な感が有ります。先ず前提として「女の感性」がどんなものか明確にしなければなりません。それは「男の感性」を考えて見れば分かります。「男の感性」という表現は,男女平等を阻害する悪いものという意味合いで使われることが有ります。そう言う意味であれば「男の感性のままで勝負」して男女平等を実現するのは矛盾です。同様に「女の感性」の中にも,男女平等を阻害するものがあるかも知れません。

 ただ,そのような男女平等を阻害する「女の感性」は「男の感性」から押しつけられたものとも考えられます。男性優位社会で生き抜くために発達した「女の感性」というわけです。その種の「悪い女の感性」を除いた「女の感性」ならば勝負可能であると思えます。しかし,じゃあその「良い女の感性」ってのは具体的に何なのだと考え出すと,途端にあやふやになって来ます。頭に浮かぶのは悪い「女の感性」ばかりです。私が古い「男の感性」しか持っていないせいなのか,リンク先の記事にもある「色の識別能力」みたいなものしか思いつきません。要するに生物的な男女差でしかありません。これって,男でいえば「腕力」みたいなものです。

 腕力で女を抑えつけるのは男女差別ですが,「腕力勝負」のすべてが男女差別になるわけではありません。女という属性だけから腕力がないと判断して採用しないのが差別です。女でも力持ちはいますから,個人をみて判断すれば「腕力勝負」も差別ではありません。「色の識別能力」も同じようなものです。女という属性だけから「色の識別能力」に優れていると判断すればこれも差別です。要するに,個人の能力で判断すべきところを性という属する集団で判断するのが差別です。個人の能力で判断するのは差別ではありませんし,せざるを得ません。目の不自由な方は,運転手には採用してもらえません。

 このようなことを考えると,「女の感性で勝負」と安易にいうのは危険に思えて来ます。今までの社会が,「色の識別能力」で勝負できない社会だったということは無いと思いますが,「腕力」で勝負できない社会だった可能性は有ります。そこに女に有利な(あくまで,集団として)能力を持ち込んでも,逆差別を増やすだけです。逆方向の差別で釣り合いを取るアファーマティブアクションという考え方も有りますが,暫定的な策で本筋ではありません。

 要するに「女の感性」は集団の属性であって個人の属性ではないのですから、集団の違いを強調することになってしまいます。人種差別に対して被差別人種の感性云々というのは良い方策とは思えません。

 とかなんとか、ごちゃごちゃ書きならべましたが、マツコ・デラックスが言いたかったのは、もっと単純なことみたいですね。それは次の言葉に表れています。

 女性政治家が増えていることについては「スカート履いてるだけで、中身は男じゃん」と一刀両断した。

 つまり,女らしい振る舞いをしているだけで差別される現状があるということです。そこでやむなく男っぽくしているだけなんだと。これは「女の感性」を評価して欲しいということではなく,仕事に無関係な女っぽい外見とかそんなもので評価するなということでしょう。これなら普通の意見で、別に盲点というほどのものではないかと。