気になる言葉

「やはり」

「やはり」という言葉は論理的な文章では使うな。

 書名は忘れてしまいましたが,文章の書き方指南の書籍に上記の様に書いて有ったような記憶があります。自分が予想していたことが現実化したような場面で「やはり」がよく用いられます。これはまあよいでしょう。しかし,「やはり,この案の方がよい」のような使い方もあります。この場合は,根拠も理由もなく,直感を述べているだけです。自分の予想が当たった場合でも,予想の根拠があったわけではないけど,たまたま当たったというニュアンスがあります。
 根拠がなくても「やはり」と書けば,何となく様になるけど内容はないという主旨だったと思います。確かにそうです。
 更に言えば,実は予想すらしていなかったのに,予想していたかのように言う場合もあります。誰かが不祥事を起こした時に「やっぱりね。怪しいと思ってたんだ」とか。この場合,後付の理由を付けるということすらしないで「やはり」で済ませることが出来ます。
 と言いつつ,やはり(つまり根拠無く),「やはり」と口走ってしまうのですね。自分では論理的に考えているようでいて,実は直感というか第一印象のようなものに後付で論理を付け加えていることが結構あります。だから,議論をしていて,自分の主張を撤回したり変えるのは非常に心理的負担が大きいのだと思います。「虚心坦懐」の態度は言うは易く行うは難しです。
 結論ありきの主張は多く目にします。結論ありきや第一印象で決めてしまうというのは,それなりに有効な戦略であり人間の脳はそのように進化したのではないかという気がします。人類の長い歴史において大部分の時代では,論理的にじっくり考えている閑はありませんでした。即座に判断しないと外敵の餌になってしまうのですね。でも,現代はじっくり考えた方がよい場面も多いので,そう言うときは意識して本能を押さえ込む必要があると思います。論理的に考えるということは本能に逆らうことではないでしょうか。

「何か変」
 これも,直感による印象を現す「言葉」です。最初は直感から出発して,変と感じる原因を論理的に探るということはしばしばあります。というか,大抵の問題意識,動機というものは,直感から始まるものですから,直感を直感として述べている限りは支障はありません。
 好ましくないのは,「何か変」を客観的な結論にしてしまうことです。主観的な感覚を事実であるかのように言ってしまうのは当然拙いですけど,印象操作などで悪用されます。うわさ話,デマのレベルではよく使われます。「○○さんちのご主人,何か変じゃない」とか。

「非常に」「すごく」*1「極めて」(程度を現す言葉)
 これは,自分自身「非常に」使う言葉です。普通は特に問題になりませんが,客観的に記述すべき文章ではあまり使わない方がよいと思います。
 程度の表現は主観的感覚である場合が多く,多用すると感情的な印象をあたえますね。自分自身が感情的と思われることは自業自得ですが,他者の印象を左右する場合もありますので注意が必要です。「極めて悪質である」とはよく目にする表現で,「極めて」と判断する根拠があるのなら構いません。しかし,その対象を好ましく思っていない場合など,根拠が無くても自分の感覚だけでつい書いて了うことがあります。議論に熱くなると,強い印象を与えようと使いがちになります。
 定量的根拠が無くても程度を表せる便利な言葉には注意が必要です。

「ある意味で」
 どういう意味かはっきり掴めていない場合に使います。自信を持って言い切れない場合に,「ある意味で犯罪である」と言ったりします。どういう意味で犯罪なのかと自問すると,まだ考えがまとまっていないだけのことがよくあります。

「言葉」ではありませんが,皮肉,揶揄について
 皮肉の効いた文章って,私はわりと好きです。それも痛烈な奴が。痛烈というのは,客観的に誰が見ても,その通りで反論できないレベルでないといけません。ニヤリとさせるためのレトリックですので,前提となる事柄は明白な事実である必要があります。内容に自信がないといけません。
 一方で,自分の感覚だけで皮肉を書くと,自信が無い故の仄めかしみたいな惨めったらしい文章になります。
 皮肉とは遠回しな指摘ですが,遠回しの経路で相手の気づいていない落ち度や痛い点を付かなければなりません。そしての遠回しの経路が成り立つと瞬時に分かる様なものでなければなりません。なかなか気づかない点を指摘する一方で,その論理は一瞬で理解できるという矛盾した条件を満たす高度な技術が必要ですから,うかつには手を出してはいけません。
 これは,同様に高度な技術が必要な笑いに似ていて,皮肉も第三者から見れば笑えるものです。解りにくい笑いは「考え落ち」と敬遠され,気づきの意外さがない笑いは親父ギャグと馬鹿にされます。皮肉も馬鹿にされないよう注意が必要です。
 皮肉や揶揄というものは,「いい加減解ってくれ。まだ解らないのか」といういらだちの感情に基づくものですから,最後の手段です。最初から使うものではないし,どのような反応が返ってきても受け流せる余裕が必要では無いかと思います。上から目線でもあることを自覚しておく必要があります。自信がなければ使わない方が懸命かと。

*1:洋七師匠の「がばいばあちゃん」が流行ったとき,佐賀県出身である私は違和感を「がばい」感じました。「がばい」は連用修飾語の副詞であって連体修飾語では無いからです。「すごくばあちゃん」じゃ意味不明です。今ではネット上でも解説されていますのでご存じの方も多いと思います。
 ところが,なんとTVの佐賀ロケを見ていたら,地元の佐賀県人も誤用して居るではありませんか。取材のタレントに調子を合わせているだけかもしれませんが,土産物にも誤用の「がばい」が結構使われています。地域興しのためには利用出来るものは利用したいのかもしれませんが,こうして言葉は変化していくのかと感慨深いものがあります。
 と思っていたら,ネットの解説では「がばい」は比較的新しい言葉と説明しています。確かに,昔を思い出してみると高齢者はあまり使っておらず,若い世代(といっても数十年昔の)の間で使っていたような。今で言う「チョー」「バリ」「メッチャ」のようなニュアンスに近い。大人も使っていたのは「くぅー」。「くぅー腹減った」のように言います