悪しき相対性理論

sivad ?@sivad 自然放射線や医療被曝を引き立て役にもち出して他の被曝を「とるに足りない」と印象づける手法は、放射線の影響をできるだけ少なくしようという前向きの姿勢とは言い難いものです。私はこうした自己弁護的な姿勢を、「悪しき相対性理論」と呼んでいます。http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ka/49.html

 「悪しき相対主義」は私も使うけど,「悪しき相対性理論」は初耳です。どういう比喩なのか皆目わかりませんが,前半に書いて有ることは,定量的考察を否定し,定性的に善悪を決める二分法です。そこから推し量ると,定量的考察を「悪しき相対性理論」と呼んでいるようです。
 善悪二分法とは,原発由来の放射線は程度に関わらず悪なので,できる限り少なくしなければならないというようなもの。輸入牛肉は悪の危険なので,できる限り検査して汚染牛肉をできる限り少なくしなければならないという考えも同様。そのためには,年間5億円の検査費用を費やすことも厭いませんが,それにより低減できる危険は100年間に一人程度の命です。つまり500億円かけて1人の命を救おうということが行われました。5億円を交通事故対策に回せば,年間数人,百年間では数百人の命をすくえそうですが,BSEによる死は悪なのに対して,交通事故死は自然放射線による死同様,仕方ないということでしょう。
 中には,自然放射線は安全だと言う人も居ますが,さすがにそれは論外です。しかし,自然放射線による被害は仕方ないが,人工の放射線による被害は悪なので,できるだけ少なくしなければならないという人は結構多いです。とても私は同意できませんが,なんとなく気持ちはわかります。嗜好品の煙草でガンになるのは仕方ないが,大企業の工場由来の発がん物質でガンになるのは我慢できないようなものかと思います。
 この意見と言うか感覚にも理解できるところはあります。自分で勝手に危険を冒す愚行権はあるが,他者がまき散らす危険は許しがたいのは確かでしょう。ところが,自分で勝手にたばこを飲むのは自由のようで,受動喫煙という問題もあります。立場を変えれば,個人の自由である喫煙が他者のまき散らす危険になります。だから,最近は路上喫煙も禁止されています。でも,家庭での喫煙だって完全には隔離できません。わずかながら漏れ出てお隣さんに危険を及ぼしているかも知れません。これは悪の危険ですからできるだけ少なくし,自宅の喫煙も禁止しなければならないことになるでしょう。

 ダイオキシンも同様だ。毒性の程度や量の問題ではなく,悪の危険なのでとにかく少なくしなければならない。そのため,野焼きや焼却炉も規制された。でもそれだけで充分ではない。家庭でサンマの塩焼きをしてもダイオキシンは発生する。ダイオキシンが含まれる煙が換気扇から漏れ出て,隣家に危険を及ぼすかも知れない。そんな危険など無視出来る程小さいのではないかと言ってはいけない。なにしろ,これは他者による悪の危険なのだから,程度の問題ではない。ダイオキシンの影響をできるだけ少なくしようという前向きとは言い難いものだ。「悪しき相対性理論」だ。
 いや,少し違うかな。個人や家庭由来の危険は悪ではない。悪と言えるのは電力会社などの大企業由来の危険だけなのだ。そうだ,トヨタは大企業であって,なおかつ有毒な排気ガスや交通事故の危険をもたらす自動車を生産している。程度に関わらずこれらの危険はできるだけ少なくしなければならない。
 製薬会社にも大企業がある。そして,薬にも危険がある。勿論,有益な効果の方が大きいが,それは問題ではない。悪の大企業のもたらす危険はできるだけ少なくしなければならない。大企業の薬は全廃しなければならない。
 
 政治的妄想はほどほどにして,原発事故由来の放射線放射性物質)はできるだけ小さくして欲しいという素朴な気持ちは理解できます。しかし,危険の程度は考えるべきでしょう。危険を除こうとすると別の危険が発生します。そちらの方が大きいかもしれません。また,危険を除くには費用が必要ですが,その費用を他のもっと有効な対策に使った方が良い知れません。
 実は,随分以前に住民問題に関わることで,同じようなことを感じたことがあります。人里離れた山奥で暮らすのとは違い,都市生活は少なからず他者に迷惑や危険を及ぼしています。そのような危険があるにも拘わらず多くの人が都市に住むのはそのデメリット以上のメリットがあるからだと思います。
 ところが,この持ちつ持たれつの関係から恩恵を受けながら,自分の被るデメリットはできるだけ小さくしたいという身勝手な人がいます。所謂,住民エゴと言われるものです。私が直接知っている例のひとつは,次の様なものです。
 都市の中心部のビルの一室で仕事しているデザイナーが居ました。その部屋が面する側のビルが建て替えになりましたが,その新築ビルの壁の色が気に入らないとう苦情の申し立てです。別に梅図かずお氏の邸宅のような奇抜な色彩ではなく,少しだけ緑がかったグレーの落ち着いた色でした。しかし,その人は微妙な色彩感覚を要する仕事をしているので,光線の具合が変わって仕事に差し支えると言うのです。そんな微妙な変化を嫌うなら,変化の大きい自然光ではなく,安定した人工照明の暗室で仕事しないのも不思議でしたし,そもそもビルの林立する都市部にいながら,田園の自然光を求めるのも過剰な要求だと思いました。それで受け付けませんでした。
 この時は脅しともとれる捨て台詞を吐かれて終わりましたが,既得権というやっかいなものがあって,この種の問題は微妙な所があります。例えば眺望権はしばしば裁判になります。法的にその眺望を遮る事はなんの問題もなく,今までたまたま眺望が良かっただけでも,既得権として認められる場合があります。本来,受信の保証のない県外の放送局をたまたま運良く視聴できていただけなのに,電波障害補償をして貰う例もあります。
 放射線とはかけ離れた話のようですが,非常に高いレベルの要求をしているということに気づいていないという共通点があります。自分の受けた被害を客観的に認識しないのでそういうことになるのです。あるいは,気づいていても,無視しているかです。加害者の方が悪いに決まっているのであり,被害者の自分がなんで遠慮しなくてはいけないのだという感覚なのだと思います。
 確かに,何の落ち度もない被害者なのだから,完全に現状復旧して欲しいという気持ちは理解できます。特に加害者が大企業であれば,現状復旧も簡単にできそうな気がします。しかし,人体には殆ど影響のないレベルの放射線をさらに少なくするのは非常に難しくなります。限界に近いところで,更に改善をするのは至難の業です。効果少なくして,労多しです。この除染費用は電力会社だけでは無理で,国の負担が相当あります。殆ど健康に影響のないレベルから更にさげるという贅沢な対策に多額の費用を投じ,本当に深刻な被害対策を妨げてはいけません。

補足
sivadさんが,放射線と健康の基本と推奨している「子どもたちを放射能から守る科学者ネットワーク【パンフレット】“原発事故の健康への影響と求められる取り組み」のQAのA7には次のように書いて有ります。

ICRPのモデルによると累積100mSvの被ばくで0.02%,10mSvでは0.002%,遺伝子疾患の発生率が上昇すると評価されます。この数字を恐ろしく感じる方も当然いらしゃるでしょう。しかし,数字の受け取り方に正解はないとはいえ,他の関連するする数値(たとえば,遺伝子疾患の自然発生率は約10%)をご確認の上で,判断されることをお勧めします。

これも「悪しき相対性理論」に該当するのでは。