築地に戻ろうと本気で考えている市場関係者っているの?

 豊洲市場が開場してひと月過ぎました。相変わらず欠陥施設という批判も続いています。この批判を何の目的のために行っているのかは、市場関係者、政党、メディア、建築関係者、その他によってそれぞれです。もし、築地に戻るという目的だった場合、このような批判は無意味ですが、何故か行われているようです。。

 築地に戻りたいのなら、設計事務所の瑕疵を指摘しても全く無意味です。言うまでもなく、設計事務所は、豊洲移転決定後に豊洲に建設する施設の設計を行っただけです。仮に設計瑕疵があったのなら、豊洲市場として満足な施設になるように再設計や補修工事の賠償責任が生じるだけで、築地に戻る話には全く繋がりませんからね。

 築地に戻りたいなら、むしろ設計事務所には過失がなかったというべきでしょう。最大限の努力をし、なんら過失がないにも拘わらず、市場として不満足な結果になったのは、豊洲という立地にあり、その責任は場所を決定した、東京都と市場関係の事業者組合にあると批判しなければなりません。ところが、現実の批判は豊洲の立地に関わるものは殆ど見当たりません。

 移転後も続くグズグズの設計への難癖は、築地に戻るためではなくて、移転阻止に失敗した憂さ晴らし、愚痴としか世間の目には映らないと思います。築地に戻ることを現実的な目的としているようにはとても思えません。

 一方、立場が違えば、設計への難癖も目的に沿ったものになります。先ず、都政野党の共産党は、都の与党の落ち度の攻撃材料として使えるならなんでもいいわけです。能力のない設計事務所を選定した責任、業務の検査がザルだった責任追及に使えます。本来は、移転に絡む利権疑惑などが良く、当初は言っていたのですが、決定的証拠がないのか、トーンダウンし、最近は設計瑕疵みたいなことばかり言っています。

 次に、メディアの目的も、都政与党への批判ですが、残念ながらモリカケ騒動で分かるようなレベルの批判しかできていませんが、まあ、それでも十分目的にかなうわけです。市場が築地に戻ろうが、戻るまいが、とにかく批判できればいいのではないでしょうか。

 最後に建築関係者ですが、政党と結びつきの深い建築士や、「非常識な建築業界に異を唱える建築家」といったキャッチコピーが似合う人達です。前者の場合は、政党の目的と同じでしょうし、後者の場合は、「批評・批判」を仕事にしており、それが目的でしょう。

 いずれの場合も、野党的立場で、既定路線を批判するのが仕事みたいなものです。その批判には真っ当なものも、お門違いもあると思いますが、築地に戻りたい市場関係者を利用しているだけに見えるのですね。最初に述べた様に、設計瑕疵を指摘したところで、築地に戻る助けには全くなりませんが、自分の利益にはなるからです。最初は、被害者を支援するように振舞っていても、結局、被害者を利用しているだけという実例は、薬害事件でありました。勝訴の見込みのない訴訟を起こす弁護団の類です。築地に戻れる見込みもまずありません。

 もっとも、いまだに設計に難癖をつけているのは、政党、メディア、建築関係者だけで、築地に戻りたい市場関係者は殆ど存在しない可能性もあります。この場合は、まあどうしようもありません。

【追記】
 この記事を書いている時に、豊洲市場の「床」が抜けたという衝撃的なツイートがありました。画像では床というか、何かの蓋のように見えますが、酷い状態であるのは確かです。果たして、設計瑕疵なのか施工瑕疵なのか、はたまた利用者がとんでもない使い方をしたのかは、現時点では不明です。いずれにしても、築地に戻る理由にならないのは、記事に書いたとおり、豊洲という立地とは無関係だからです

政策の是非を人の過失に矮小化する − 豊洲市場と原発

 元築地市場に居座る市場関係者は、戦術を間違えたのじゃないですかね。地下水汚染や豊洲市場施設の欠陥ばかり強調するものだから、それらの問題がなければ、移転できると言ってしまったようになっています。でも、移転先が未定の時から反対していたってことは、本当の理由は別にあるわけです。市場には過去の複雑な経緯があり、理由を簡単にまとめられるものではないでしょうが、私の独断でまとめると、移転による打撃でしょう。打撃を避けるには、移転阻止が最善ですが、次善の策として、打撃の補償を求めるという二段構えが現実的な対応です。移転阻止の見込みがなくなった段階で次善の策に切り替えるのが交渉というものです。

 しかし、元築地市場に居座る市場関係者は、戦術の失敗によって、移転の見込みがなくなった段階どころか、移転してしまった後でさえ、移転阻止を唱え続け、不法行為を行うはめになっています。市場当事者にとっては全く利益にならない不幸なことで、得をしたのは、現行体制にいじめられる零細事業者という宣伝に利用したい政党や、その関係者だけという結果になっています。

 本来は、移転が経営に及ぼす影響という市場運営政策とでもいうべき問題であったはずが、施設の不備という技術的な問題に矮小化してしまったんですよ。設計事務所の過失のようなことばかり批判した結果、市場業者の生活に直結する市場運営政策はどこかに吹っ飛んでしまいました。
 
 市場業者の生活が苦しくなっても、私にはあまり影響はありませんし、豊洲移転にも賛成ですが、大きな影響がある問題で、反対する事業でも似たようなことが行われています。東京電力福島第一原発事故を巡り、旧経営陣3人が業務上過失致死傷罪で強制起訴された刑事裁判です。

 この裁判は、東電の津波対策に業務上の過失があったと訴えられたものです。業務上の過失とは、その専門分野で論争があるようなもので問うことはできず、当然行うべき判断を行わなかったという必要があります。しかし、記事を読んだだけでも、いろんな見解があり、論争があるように見えます。このような状態で、裁判所が決着をつけることは、専門分野の論争の決着を司法にゆだねるということで非常に危険です。

 という、危惧はあるものの、とりあえず、過失が問えるような判断ミスがあったと仮定して考えてみましょう。つまり、津波対策には異論のない標準的方法があるにもかかわらず、東電は無視するという誤りを犯したと訴えられたと考えるということです。豊洲市場を設計した設計事務所が設計ミスをして施主から訴えられた、というのも同じ構図です。

 原告は裁判にしたのですから、当然そのように考えているでしょう。反原発の私は、このことに違和感を感じるのですね。東電が過失によって事故を起こしたといえるには前提があります。「過失のない原発が存在する」という前提が。自動車の運転に過失があるというのは自動車が認められているということであり、認められていないなら過失もくそもありません。要するに、交通事故などの個人の責任追及と同じレベルの争いになってしまい、車社会を否定できないように、原発も否定することはできません。

 人為的なミスがなく、誰の責任も問えない事故や災害はありますが、それを承知の上で飛行機のような様々な技術を我々人類は使っています。ある程度の被害は受け入れているということです。しかし、許容できない事故というものがあるのなら、事故をゼロにすることはできませんので、そのような技術は使うべきではないでしょう。実際に、医学分野にはその種の禁じられた技術があります。そして、許容できないという判断は、科学的、技術的あるいは裁判で決めるものではなく、社会的合意つまり政治判断になります。

 つまり、原発論争は政治論争であって、科学技術の議論でも、裁判で決着をつけるものでもないと私は考えますが、この裁判は、原発設計のミスに矮小化しているのですよ。

 まあ、現実には、政治闘争に、裁判闘争を使うという戦術は普通に行われています。これは、嫌がらせ戦術とでもいうやり方で、ハニートラップで政敵を失脚させたり、印象操作なども同類です。つまり、政策論争を行うのではなく、盤外作戦で相手の印象を貶めるわけです。言い換えれば、「悪いことだからダメだ」ではなく、「悪い奴がしているからダメだ」です。「罪を憎ます、人を憎む」ですね。「原発はダメだ」ではなく、「ダメな東電の作る原発はダメだ」という戦術です。

 この戦術は、結構有効なのですが、失敗すると「ダメじゃない奴が作る原発ならいい」となりかねません。結局、「誰が作ってもダメ」という必要がありますが、これは前述した「誰の責任でもないが許容できない事故があるかからダメ」という主張に外なりません。しかし、属人的批判ばかりしてきた反原発は、そうはならず、「ちゃんとやれば事故は無くせる。」という非現実的なゼロリスクになってしまいます。

 原発の是非は、政策論争で決めるべきで、原発事業者の設計ミスを裁判で争うようなものじゃないと思うのですよ。議論であって喧嘩ではないと思うのですけどね。

明瞭なようで不明瞭

 豊洲市場移転問題のツイートのやり取りで,次のように言われました。

鮪に限らず、築地の仲卸業者は高級魚だけを扱うのではなく、高級料亭から大衆食堂、商店街の魚屋さんまで、値段と用途に合わせて適切で良質な魚を卸すのが仕事なんだと祖父も父も弟も申しておりました。それができるのがいわゆる目利きで、高級魚だけを選ぶなら素人でもできるそうです

 ごく普通のことのようで,最後のところが少し引っかかります。よくよく考えてみると,いろんな意味に受け取れます。
 なお,豊洲市場移転問題とは全く無関係で,誤解や行き違いの原因にはこんなこともあるのではないかというのが,この記事の主旨です。

■文字どおりの意味

 料亭向けの高級魚だけを扱うのではなく,大衆食堂、商店街の魚屋向けの大衆魚も扱っている,という前半の意味はよく分かります。しかし,「高級魚だけを選ぶなら素人でもできる」の部分は,どういう意味なのでしょうか。タイ,ヒラメ,サンマ,イワシの中から,高級魚のタイとヒラメを見分けることなら,素人の私だってできますし,大衆魚のサンマとイワシも見分けられます。従って,「高級魚だけ」ではなく大衆魚も見分けられますので,私も目利きのプロになってしまいます。これはどう考えても変なので,この意味ではないはずです。

■高級魚の中でさらに品質を見分けられるという意味

 タイやヒラメという高級魚の鮮度の違いや,味の程度まで見分けられるという意味が次に考えられます。でも,これは素人の私には少し難しく,「素人でもできる」とは言えません。
 また,高級魚の品質の見極めは簡単だけど,大衆魚は難しいというのも疑問です。従って,この意味も変です。

■多種の魚を見分けることができるという意味

 「タイ,ヒラメ,サンマ,イワシ」の4種ならば,高級魚と大衆魚を見分けるのは簡単です。しかし,私が見たことのないような多種の魚が実際にはありますので,それらも見分けることができるのがプロの目利きという意味はどうでしょうか。つまり,高級魚と大衆魚の間にグレーゾーン魚が存在し,高級魚とグレーゾーン魚の区別は素人でもできるけど,大衆魚とグレーゾーン魚の区別はプロの技という意味です。
 この意味は,高級魚と紛らわしいグレーゾーン魚は殆ど存在しないけど,大衆魚モドキは無数にあって間違い安いということです。ありえないではありませんが,どうなんでしょうか。

 結局,どういう意味なのか分かりません。私にはわからない重大な意味があるのかもしれません。誰か教えてくれると嬉しいですが,期待していません。何気なく聞いていると特に変な感じは受けないけど,考え出すと意味が不明瞭だなということは,会話ではよくあります。無意味でもノリで成立する会話もありますからね。

【蛇足:医療検診のアナロジー
 
 三番目の最後に述べた場合で,グレーゾーン魚も詳しく調べれば高級魚か大衆魚に分けられるとすると,医療検診の特異度とか偽陽性の問題と似ています。

特異度と偽陽性率と陽性反応的中割合と

 魚の目利きを医療検診になぞらえると,次のようになります。

実際の高級魚を高級魚と正解した数:a
実際の高級魚を大衆魚と間違えた数:c
実際の大衆魚を高級魚と間違えた数:b
実際の大衆魚を大衆魚と正解した数:d

目利きを評価する指標は次のようになります。

高級魚を高級魚と正解した割合A:a/(a+c)
大衆魚を大衆魚と正解した割合B:d/(b+d)
高級魚を大衆魚と間違えた割合C:c/(a+c)=1-A
大衆魚を高級魚と間違えた割合D:b/(b+d)=1-B
高級魚と判断した内、高級魚の割合E:a/(a+b)
大衆魚と判断した内、大衆魚の割合F:d/(c+d)

高級魚の事前確率:(a+c)/(a+b+c+d)

 目利きの技を評価するのは,A〜Dです。A,Bの正解の率が大きいほうが腕がよい良いといえそうですが,やみくもに高級魚と言えば,Aは100%の満点です。ただし,Bは0%になってしまいますし,Dの間違いも100%になってしまいます。

 また,患者ならぬ,顧客の関心事は,A〜Dではなくて,E(高級魚判定的中率)とF(大衆魚判定的中率)です。cやbの間違いがゼロなら理想的目利きで,E,Fも100%になりますが,現実にはあり得ません。

 さらに,E,Fは,目利きの技(A〜D)だけではなく,高級魚の事前確率や大衆魚の事前確率に影響されます。高級魚は味の良さだけでなく希少性すなわち事前確率が小さいと考えれば,殆どが大衆魚になります。すると,AとBの目利きの技が100%近くあっても,高級魚と判断したものが大衆魚である可能性は大きくなります。

豊洲市場は欠陥施設と本当に思っているのか

「人のこころは読めるか」(ニコラス・エプリー)より

 スタンフォード大学のリチャード・ラピエールという社会学者が、おんぼろ車に乗って1万6000キロメートルに及ぶ旅に出たのだ。ラピエールの旅のきっかけになったのは、彼が若いアジア系の夫婦と、「アジア人差別」で有名な小さな町に行ったときの出来事だった。アジア人への差別は、第一次世界大戦第二次世界大戦のあいだのアメリカでは、残念ながら珍しくなかった。そのため、ラピエールは多少緊張しながら、町でいちばんきれいなホテルに三人が泊めてもらえるかどうか訊きに行くと、意外にもすんなりと泊まれた。ホテルの受付係は、町の評判に反してさほど偏見を持っていなかったようで、「ためらいなくOKしてくれた」という。
 そしてまさに偶然にも、ラピエールは二か月後に同じ町に行くことになった。彼は単なる好奇心から同じホテルに電話して、「非常に身分の高い中国人紳士」と近々また訪れる予定があるので泊めてもらえないかと訊くと、受付係は、以前と同じようにためらいなく強い口調で「それはできません」と答えた。この対応の違いにラピエールは興味を持った。人種差別的な考えを持つ人が、人種差別しないこともあるのだろうか?あるいは、自分がどういう考えを持っているかを、そもそもわかっていないのだろうか?
 ラピエールはたった一つの出来事だけではこの疑問に答えられないが、数百人の受付係に(正確には、251人の受付係に)同じことを訊けば、何かわかるかもしれないと考えた。そこで、中国人の友人二人とアメリカ横断の旅に出かけ、二年かけて184件のレストランと67件のホテルを訪ね歩いた。ラピエールは様々な条件のもとでデータを集めるため、友人にいろいろな服装をしてもらったほか、店やホテルに入れてもらえるかどうか訊くときも、彼自身が訊くこともあれば、二人の友人に訊いてもらうこともあった。そして返ってきた答えを細かく記録していった。友人たちにとっては不思議な旅だっただろう。というのも、ラピエールは、「彼らに配慮して」、あるいは調査結果に影響が出ないように、この旅が実験の一環であることを教えていなかったからである。
 さて、彼らが入店や宿泊を断られた回数はどれくらいだっただろう?
 答えを言う前に、ラピエールが旅した地域は、人種差別が激しかった地域であることを、まず頭に入れて欲しい。彼は、それぞれの町を訪れた六か月後に、書類で「あなたの施設に中国人客が来たとしたら、受け入れますか?」と問い合わせたところ、ほぼすべての施設が「いいえ」と答えた。ホテルの91%、レストランの92%がそう答えたのだ。まさに評判通りの結果だった。
 では、旅に同行した中国人夫妻が、実際に訪れて入店や宿泊を断られた割合は、いったいどれくらいだっただろう?90%?92%?とんでもない。断られたのは、たった1回だけで、しかも「どちらかと言えば低級なオートキャンプ場に、ひどくおんぼろの車で訪れたとき」だけだった。そう、たった1回だけなのだ、調査対象の90%以上の施設が、自分たちは人種差別主義者のように振舞うだろうと答えていたのに、実際にそうした行動をとったのは、わずか0.5%以下だったのである。

 この引用の後には、もっと新しい別の実験を紹介しています。その実験とは、平等主義を支持している人を被験者としていました。被験者は、人種差別的な発言やジョークなどを目撃したら、自分はきっと怒るだろうと予想したにもかかわらず、実際には人種差別的発言を聞いても傍観するだけで、なんの行動もとらなかったというものです。さらに、同じ人種差別的コメントを想像した時の不快感よりも実際に目撃した時の不快感の方が低かったそうです。

 理念というか頭でかくあるべしと考えていることと、実際の行動が違うことは、お客さん相手の仕事をして人なら実感することが多いのではないでしょうか。セールスマンは、そのあたりをよく理解していれば、成績を上げることができます。実は私の仕事でも感じたことがあります。

 例えば、建物の耐震性や使い勝手について、一般の人は非常に気にします。ただし、それはこれから注文する建物について頭の中で考えている時という条件付きです。実際に建物を使いだすと、そういうことはなぜか忘れてしまいます。公共施設の耐震性がないことを非常に気にする人が、実際に自分が使っている建物の耐震診断をして、「震度5で崩壊の危険性がありますので、耐震改修が必要です」と勧められても、改修に二の足を踏みます。先ずもって、予算がないこと、次に改修工事で不便を強いられることが理由です。「しかしですよ、お金や不便よりも命が大切ではないですか」と言っても、「建物が壊れるような地震はそうそうないでしょう」という反応になります。建物の使い勝手も似たようなものです。設計している時や、新築後はいろいろ気になる点が目につき使えないとクレームを言いますが、実際に使っている建物については、いろいろ不満はあっても、それなりに使っていて、あえて使いやすく改修しようとは考えません。改修するとなると、費用を捻出しなければなりませんし、工事中は、仕事や生活に影響するからです。

 人種差別や建物の安全性、利便性にたいする理念と、実際の行動が違う理由は、行動している時は、目下の行動を滞りなく行うことが最重要になるからではないでしょうか。言ってしまえば、目先の事しか考えないということです。「アジア人の宿泊は拒否する」という理念があっても、目の前にアジア人が来ているのを断るとなるとひと悶着あるかもしれません。しかし、電話の申し込みなら、切ってしまえば済みます。人種差別しないという理念があっても、差別的発言を聞いて怒るにはエネルギーが必要ですし、面倒事が起こるかもしれません。

 場合によっては、現在の行動に合致するように理念を後付けすることもあります。その方が、理念に合致するように行動を起こすよりもハードルが低くなります。人間は、意識的に理念や計画に基づいて行動するというよりも、ほとんど無意識に刺激に反応して行動していることは、自分の行動を振り返っても思い当たります。そして後から、その行動を合理化する理念をいろいろ捻りだします。

 さて、豊洲市場施設は、一部の移転反対の人たちから欠陥施設だと批判されています。これらは建築専門家が指摘していますが、本心ではなく、素人を騙すための故意犯的指摘だとしか思えません。故意でないとすれば、建築専門家としてお粗末すぎる指摘だからです。一方、移転反対の市場当事者の多くの人は指摘を信じているようです。しかし、彼らは欠陥施設だから移転に反対していたわけでは有りません。なにしろ設計が行われるはるか以前から反対していました。その理由は、移転費用の捻出が困難なことと、後継者がいない状況で設備投資する意味がないからです。それは報道でも言われています。移転を契機に廃業する予定の業者は移転延期前の報道では50業者ほどでした。移転がなければ、どれだけ持つか分かりませんが、しばらくは築地で営業できるでしょう。移転となると即廃業です。個人の事情としては、反対するのも当然です。

 では、現実に移転できないという切実で根本的な理由ではなく、欠陥施設という理由ばかりクロースアップされるのは何故でしょう。おそらく、経営状態という個人的(本当は個人的ともいえないと思いますが)な理由よりも、分かり安くかつ世間に訴えやすいからだと思いますがこれは憶測です。また、本当か怪しいですが、設計内容を東京都が秘密にしており、移転直前になって初めて明らかになり欠陥が分かったという人もいます。表向きのスタンスとしては、「市場関係6団体は移転に合意した。不満ではあるが従わざるをえないと思ってきたが、施設の欠陥が酷すぎて、とても営業できない」でしょう。

 しかし、その理由は、無理があります。耐震性についていえば、耐震診断NGの築地市場より劣ることはあり得ません。使い勝手も、列車輸送に対応した施設に増築を重ね、荷捌き場所の指定もなく、各卸売業者が路上や駐車場の空きスペースで適宜行い、渋滞を引き起こし、人間による交通整理を行っている築地より不便ということはあり得ません。また、駐車台数も不足するのかもしれませんが、少なくとも築地市場より増えています。豊洲市場が満点とは言いませんが、築地市場で営業できたのなら、豊洲でも可能だと思います。

 もう一点は、設計の問題というよりも、その前提の市場の物流の考え方が変わっており、それへの抵抗があると思います。
築地市場の豊洲移転と移転に向けた準備状況
 上記リンク先の記事によると、閉鎖型の施設では所定のバースで荷下ろし、出荷しなければならず、屋内の物流は共同化せざるを得ず、共同出資による物流組織が設立されているそうです。一方、築地市場では、定まった動線は無く、各卸売業者が「小揚」と呼ばれる専門業者によって複線的な物流を行っているようです。この方式は高コストらしいのですが、築地市場独自の商慣習と文化を作っているらしく、新しい方式そのものに抵抗があるのかもしれません。つまり、閉鎖型施設にするのか、築地市場のカオスな方式を踏襲するのかという基本的な点について十分合意ができていないように感じます。豊洲市場動線が駄目だという苦情は、閉鎖式施設の運営に不安があるからではないでしょうか。

 豊洲市場は、決して理想的でなく、欠陥や築地市場より劣る点も部分的にはあるかもしれませんが、総合的に劣るとはとても考えられません。しかし、移転できない根本的理由が欠陥施設という指摘とは別にあるとすれば、的外れの指摘を論破したり、もっともな指摘については改善しても、移転できない人は移転できません。移転できない原因が取り除かれていないからです。

 仮に、設計が悪く欠陥施設が移転を断念し廃業する大きな理由なら、移転延期後の数々の指摘によって、移転断念する業者が増えているはずですが、そういう情報はありません。前述の通り、移転延期まえの報道では、豊洲移転を契機に廃業する仲卸業者は50業者程度でしたが、それが増えたという報道はまだありません。また、上記リンク記事にも、仲卸業者が事業継続するか否かの判断のポイントは、①移転にかかる費用の負担感,②水産業水産物消費全般の将来的見通しに対する評価,③同業者の動向,④営業権の売却益に対する評価等と説明しています。更に、移転に反対する本質的な理由を次のように述べています。

量販店対応力向上を目指す豊洲市場の基本構想は,目利き力を発揮し専門鮮魚店や料亭等のプロを相手とすることを得意としてきた仲卸業者にとって,基本的に適合的なものではない。

【追記】
 本文に述べたように、欠陥施設指摘に個別に反論しても、もぐらたたきのようなものでキリがない。耐震性のようなものは、私でも反論できるが、市場の機能にかんする内容については無理なものもある。しかし、総括的に指摘が的外れで、少し馬鹿げているのは、指摘があまりに多すぎることから感じるところである。これではまるで、日建設計が無能者集団のようではないか。いや、無能者集団どころではない、意図的に間違いをしているという陰謀論でも持ち出さないと説明が付かないレベルである。チョンボはありうる(実際、日建設計はしている)が、致命的なチョンボなら一つあるだけで大問題である。ところが、豊洲市場では、耐震性不足、杭の耐力不足、液状化対策の不備、床荷重不足、建物の傾斜、動線の混乱、排水溝深さ不足、区画間口寸法不足、断熱不足、面積不足、駐車台数不足、等等。

 更に、確率的に、無能によるミスは、過剰設計と危険側設計が半々になる。ところが、豊洲市場への指摘はすべて危険側設計ばかりである。意図的に間違えなければほとんどあり得ないレベルだ。しかも、発注者の東京都、さらには建築主事もミスを見落とさなければならない。全員がグルになった陰謀とでも考えなければ、有りそうにない。それほどの陰謀を企てて、一体何の得があるのか全く分からないのである。

築地市場の動線

 「築地市場動線は優れている」というツイートを見かけました。驚いて、「築地市場には、そもそも動線がない」という指摘もあると、リツイートしました。

築地市場はとっても危険でヤバイです。

次の動画を見れば、部外者の私には、「とっても危険」としか思えません。実際に行ってみて身の危険を感じたというのもあります。

カオス過ぎる築地市場の交通整理

 にもかかわらず、実際に市場を使っている当事者が、築地市場が優れていると仰るわけです。何故なのでしょうか。それを確かめるには、築地市場動線を確かめなければなりません。

 ところが、何ということか、現在の築地市場動線を説明したものが見つけられないのです。例えば、現代思想の2017年臨時増刊号「築地市場」に中沢新一氏が執筆している記事には、昭和10年竣工時の物流動線と現在の物流動線の図が示されています。ところが昭和10年の図には矢印で動線が示してあるのに、現在の図にはなにも示してありません。動線がないのです。

 実に奇妙ですが、その謎を解く鍵は、同じ記事にありました。つぎのような記述があります。

築地市場内を自在に動き回っていたターレも、(豊洲市場の)この窮屈な渡り廊下の中では一方向に流れていくしかなく、多くの仲卸はかえって事故が起きやすくなるのでは、という懸念を抱いている。」

 一般的に優れた動線とは、一方向に流れが整理され、行く先の違う流れは交錯しません。先の動画のような交通整理や信号は不要です。高速道路には信号がありません。ところが、他の施設でも、このようなきちんと管理された動線は、当初、現場の人にとって評判が悪いことがあります。動線が交錯しようが、現場で上手く処理するので、いままで通り、自由に動ける方がよいと言われたりします。豊洲市場では、それに加えて、一方向の流れの方が事故も起きやすいとすら思われているわけです。これは、禁煙なんぞしたら、ストレスでかえって寿命が縮まるというヘビースモーカーの不満に似ています。

 結局、築地市場動線が優れているというのは、定まった動線がなく、好きに動けることのようです。自由度が大きいのは、それだけに留まりません。築地市場の通路は、車両も歩行者も自由に通行できますし、駐車スペースや発泡スチロール置場としても自由に使われています。その結果、通路は狭くなりますが、抜群の運転技量でなんなく通行しています。かなりの交通事故は発生しますが、死亡事故はめったにありません。

 築地魚市場へ潜入

 豊洲市場では、そういう自由がないのも評判が悪い理由なのかもしれません。動線に限らず、自由が制限される管理は嫌われることは良くあって、もっともな場合とそうで無い場合があります。

「営業権」という言葉は混乱のもとー築地市場

 「営業権」とは、M&Aの際に会計に計上する項目に過ぎないと、前記事で説明しました。しかし、「法律に則った権利」と書いてあるツイートを見かけたので、M&A会計以外の意味で使っている法律がないか法令データベースで検索してみました。 

 検索に、16の法令等が引っかかりましたが、総て会計上の項目として記載されていました。それらの内、法律は「法人税法」ただ一つで、他の15は、施行令や施行規則であり、明確には述べてありませんが、「法人税法」に言うところの営業権と解釈できます。これ以外にほぼ同じ意味の「のれん」で調べて見ると、47ありましたが、法律はありません。これらもすべて会計上の項目として記載されいます。

 つまり、移転の権限を含む憲法の財産権の一種という意味で、「営業権」という言葉を法令は使っていないということです。もちろん、そのような権利があると主張し、裁判等で争うことは自由です。ただし、その際「営業権」という言葉を使えば混乱するだけだと思います。

 なお、「営業権」は法人税法他で使われていますが、明確な定義はないようです。一方、会社法では「のれん」という用語になっており、これは、超過収益力(取得原価と純資産価格との差額)として明確に定義されています。のれんは、権利ではありませんが、代理店契約やライセンス契約などの法律的な権利関係を基礎とするものを含めて「営業権」とすることもあるようです。
のれんの会計と実務
 代理店契約やライセンス契約などは、解釈の余地のない明白な権利ですが、築地市場の場合にこれに相当するのは、東京都知事の許可です。これには、移転の権限などありません。営業権組合が主張している「営業権」のうち、長年築き上げた名声や信用に基づく『のれん』は、「鑑札」として売買されているようで、これが会計上の「のれん」にほぼ相当するのではないでしょうか。ただし、東京都に対して移転を拒否出来るような権利は含まないと思います。

 結局、のれん(超過収益力)と都知事許可(権利)の他に移転の権限というようなものを営業権組合は主張しているように思いますが、そういうものがあるのか個人的には疑問です。仮にあるとしても、超過収益力に基づく移転の権限というのは筋が逆転していると思います。他の居住権や借家権の類の権利は、生存権の意味合いであったり、借り手の立場を不安定にしないために設けられています。むしろ、収益力がない業者ほど立場が不安定であり、守られるべきでしょう。

 多くの場合、公共的施設が移転すると、そこに入居している事業者や周辺で営業している事業者に大きな影響がありますので、反対運動は珍しくありません。この種のもめごとの解決は、政治的交渉で行われ、法律に則った権利で処理できる類の問題ではないと思います。

築地市場の営業権

築地に新・営業権組合 事業者が結成 移転問題、都と交渉へ

 「営業権」という言葉の響きには、居住権と似た「営業する権利」という印象があります。私自身、そう感じましたし、築地市場営業権組合のいう「営業権」もそれに近いです。ところが、調べてみると、随分趣が違います。権利というようなものではなく、会計上の無形固定資産の一つに過ぎません。門外漢ですが、会計上の営業権と、築地市場営業権組合のいう「営業権」の違いについてまとめてみました。

■会計上の営業権とは

営業権(のれん)

 営業権を一言で言えば「ブランド価値」のようなものです。ただし、実際に営業譲渡などで有償取得した場合に限り、貸借対照表に計上できますが、自社で築き上げてきたブランドは評価が出来ないため、計上できません。会社を譲渡する場合の価格は、正味の資産である純資産額に加えてブランド価値も加味され、支出を伴いますので、計上できるというわけです。そして、日本の場合、減価償却するのが、国際会計基準との大きな違いです。

■ 会計上の営業権の性質

 以上の営業権の意味から、以下に述べるようなことが言えます。

1.負の営業権がある
 営業権を評価するのは、営業権を買う側ですので、負の営業権もあり得ます。いわゆるハゲタカファンドの買収のような場合かと思います。

2.営業権の額は、営業譲渡の度に変わる。
 営業権は、売り手と買い手の合意で決定するので、以前に自分が取得した額で売れるとは限りません。

3.賃貸の場合、貸主の承諾が必要
 次のQAは、賃料滞納者が、賃料の支払督促に対し、みずからの営業権を譲渡して滞納賃料を支払いたいと言ってきたものです。

「営業権の譲渡」による滞納賃料の支払とその対応

 この例で、賃貸契約を解消しないのなら、「また貸し」になりますので、当然、貸主の承諾が必要です。

4.賃貸の貸主は当事者ではない

 前記の例で、また貸しはトラブルの元ですので、賃貸契約を解消し、新しい借り手が、貸主と契約するのが普通です。その際に、新旧借り手の間で、別に、営業権譲渡すればよいわけです。新しい借り手が、営業権を高く評価してくれれば、そこから古い借り手は貸主に滞納賃料を払えます。いずれにせよ、営業権額は古い借り手と新しい借り手の間で決めるもので、貸主は関与しません。賃料は、借り手のブランド価値とは無関係ですから。

5.営業権額は、個別の事業者ごとに異なる。
 いうまでもないでしょう。
 
■ 東京魚市場卸協同組合が行っていた営業権譲渡の仲介

仲卸営業権の譲渡仲介 築地の協組、移転で廃業検討多く

 築地市場では、業者間で「鑑札」の売買が行われています。いわゆる「営業許可」は東京都が発行するものですから、業者が勝手に売り買いできません。従って、この「鑑札」とは、業者が行ったテナント設備と「営業権」と考えれば、納得できます。これには、東京都は関与しないと思います。このうち、「営業権」の譲渡について、2014年に東京魚市場卸協同組合が仲介しています。仲介ですから、あくまで、主体は「営業権」を売り買いする業者です。

■ 築地市場営業権組合が行う「営業権」交渉とは?

 今までの説明から明らかなように、会計上の営業権も、各事業者が持っています。ただ冒頭に述べたように、権利ではなく価値であることも、今までの説明で明らかでしょう。その価値は営業権譲渡の時に当事者同士で決めるものなので、東京魚市場卸協同組合は、仲介をするだけでした。

 これに対して築地市場営業権組合のいう「営業権」とは、次のような「権利」のようです。

1.移転の権限を含む
2.財産権の一種、特許権著作権と同じ性質
3.行政機関から法令に基づく特許や許認可を受けて営業している場合に主張できる
4.長年築き上げた名声や信用に基づく『のれん』がある場合に主張できる。
5.交渉相手は東京都
6.場外業者も持つ権利

 会計上の営業権とは全く違います。なんとなく、主張したいことはわかりますが、営業権は誰かが保証してくれるものじゃありませんね。