豊洲市場は欠陥施設と本当に思っているのか

「人のこころは読めるか」(ニコラス・エプリー)より

 スタンフォード大学のリチャード・ラピエールという社会学者が、おんぼろ車に乗って1万6000キロメートルに及ぶ旅に出たのだ。ラピエールの旅のきっかけになったのは、彼が若いアジア系の夫婦と、「アジア人差別」で有名な小さな町に行ったときの出来事だった。アジア人への差別は、第一次世界大戦第二次世界大戦のあいだのアメリカでは、残念ながら珍しくなかった。そのため、ラピエールは多少緊張しながら、町でいちばんきれいなホテルに三人が泊めてもらえるかどうか訊きに行くと、意外にもすんなりと泊まれた。ホテルの受付係は、町の評判に反してさほど偏見を持っていなかったようで、「ためらいなくOKしてくれた」という。
 そしてまさに偶然にも、ラピエールは二か月後に同じ町に行くことになった。彼は単なる好奇心から同じホテルに電話して、「非常に身分の高い中国人紳士」と近々また訪れる予定があるので泊めてもらえないかと訊くと、受付係は、以前と同じようにためらいなく強い口調で「それはできません」と答えた。この対応の違いにラピエールは興味を持った。人種差別的な考えを持つ人が、人種差別しないこともあるのだろうか?あるいは、自分がどういう考えを持っているかを、そもそもわかっていないのだろうか?
 ラピエールはたった一つの出来事だけではこの疑問に答えられないが、数百人の受付係に(正確には、251人の受付係に)同じことを訊けば、何かわかるかもしれないと考えた。そこで、中国人の友人二人とアメリカ横断の旅に出かけ、二年かけて184件のレストランと67件のホテルを訪ね歩いた。ラピエールは様々な条件のもとでデータを集めるため、友人にいろいろな服装をしてもらったほか、店やホテルに入れてもらえるかどうか訊くときも、彼自身が訊くこともあれば、二人の友人に訊いてもらうこともあった。そして返ってきた答えを細かく記録していった。友人たちにとっては不思議な旅だっただろう。というのも、ラピエールは、「彼らに配慮して」、あるいは調査結果に影響が出ないように、この旅が実験の一環であることを教えていなかったからである。
 さて、彼らが入店や宿泊を断られた回数はどれくらいだっただろう?
 答えを言う前に、ラピエールが旅した地域は、人種差別が激しかった地域であることを、まず頭に入れて欲しい。彼は、それぞれの町を訪れた六か月後に、書類で「あなたの施設に中国人客が来たとしたら、受け入れますか?」と問い合わせたところ、ほぼすべての施設が「いいえ」と答えた。ホテルの91%、レストランの92%がそう答えたのだ。まさに評判通りの結果だった。
 では、旅に同行した中国人夫妻が、実際に訪れて入店や宿泊を断られた割合は、いったいどれくらいだっただろう?90%?92%?とんでもない。断られたのは、たった1回だけで、しかも「どちらかと言えば低級なオートキャンプ場に、ひどくおんぼろの車で訪れたとき」だけだった。そう、たった1回だけなのだ、調査対象の90%以上の施設が、自分たちは人種差別主義者のように振舞うだろうと答えていたのに、実際にそうした行動をとったのは、わずか0.5%以下だったのである。

 この引用の後には、もっと新しい別の実験を紹介しています。その実験とは、平等主義を支持している人を被験者としていました。被験者は、人種差別的な発言やジョークなどを目撃したら、自分はきっと怒るだろうと予想したにもかかわらず、実際には人種差別的発言を聞いても傍観するだけで、なんの行動もとらなかったというものです。さらに、同じ人種差別的コメントを想像した時の不快感よりも実際に目撃した時の不快感の方が低かったそうです。

 理念というか頭でかくあるべしと考えていることと、実際の行動が違うことは、お客さん相手の仕事をして人なら実感することが多いのではないでしょうか。セールスマンは、そのあたりをよく理解していれば、成績を上げることができます。実は私の仕事でも感じたことがあります。

 例えば、建物の耐震性や使い勝手について、一般の人は非常に気にします。ただし、それはこれから注文する建物について頭の中で考えている時という条件付きです。実際に建物を使いだすと、そういうことはなぜか忘れてしまいます。公共施設の耐震性がないことを非常に気にする人が、実際に自分が使っている建物の耐震診断をして、「震度5で崩壊の危険性がありますので、耐震改修が必要です」と勧められても、改修に二の足を踏みます。先ずもって、予算がないこと、次に改修工事で不便を強いられることが理由です。「しかしですよ、お金や不便よりも命が大切ではないですか」と言っても、「建物が壊れるような地震はそうそうないでしょう」という反応になります。建物の使い勝手も似たようなものです。設計している時や、新築後はいろいろ気になる点が目につき使えないとクレームを言いますが、実際に使っている建物については、いろいろ不満はあっても、それなりに使っていて、あえて使いやすく改修しようとは考えません。改修するとなると、費用を捻出しなければなりませんし、工事中は、仕事や生活に影響するからです。

 人種差別や建物の安全性、利便性にたいする理念と、実際の行動が違う理由は、行動している時は、目下の行動を滞りなく行うことが最重要になるからではないでしょうか。言ってしまえば、目先の事しか考えないということです。「アジア人の宿泊は拒否する」という理念があっても、目の前にアジア人が来ているのを断るとなるとひと悶着あるかもしれません。しかし、電話の申し込みなら、切ってしまえば済みます。人種差別しないという理念があっても、差別的発言を聞いて怒るにはエネルギーが必要ですし、面倒事が起こるかもしれません。

 場合によっては、現在の行動に合致するように理念を後付けすることもあります。その方が、理念に合致するように行動を起こすよりもハードルが低くなります。人間は、意識的に理念や計画に基づいて行動するというよりも、ほとんど無意識に刺激に反応して行動していることは、自分の行動を振り返っても思い当たります。そして後から、その行動を合理化する理念をいろいろ捻りだします。

 さて、豊洲市場施設は、一部の移転反対の人たちから欠陥施設だと批判されています。これらは建築専門家が指摘していますが、本心ではなく、素人を騙すための故意犯的指摘だとしか思えません。故意でないとすれば、建築専門家としてお粗末すぎる指摘だからです。一方、移転反対の市場当事者の多くの人は指摘を信じているようです。しかし、彼らは欠陥施設だから移転に反対していたわけでは有りません。なにしろ設計が行われるはるか以前から反対していました。その理由は、移転費用の捻出が困難なことと、後継者がいない状況で設備投資する意味がないからです。それは報道でも言われています。移転を契機に廃業する予定の業者は移転延期前の報道では50業者ほどでした。移転がなければ、どれだけ持つか分かりませんが、しばらくは築地で営業できるでしょう。移転となると即廃業です。個人の事情としては、反対するのも当然です。

 では、現実に移転できないという切実で根本的な理由ではなく、欠陥施設という理由ばかりクロースアップされるのは何故でしょう。おそらく、経営状態という個人的(本当は個人的ともいえないと思いますが)な理由よりも、分かり安くかつ世間に訴えやすいからだと思いますがこれは憶測です。また、本当か怪しいですが、設計内容を東京都が秘密にしており、移転直前になって初めて明らかになり欠陥が分かったという人もいます。表向きのスタンスとしては、「市場関係6団体は移転に合意した。不満ではあるが従わざるをえないと思ってきたが、施設の欠陥が酷すぎて、とても営業できない」でしょう。

 しかし、その理由は、無理があります。耐震性についていえば、耐震診断NGの築地市場より劣ることはあり得ません。使い勝手も、列車輸送に対応した施設に増築を重ね、荷捌き場所の指定もなく、各卸売業者が路上や駐車場の空きスペースで適宜行い、渋滞を引き起こし、人間による交通整理を行っている築地より不便ということはあり得ません。また、駐車台数も不足するのかもしれませんが、少なくとも築地市場より増えています。豊洲市場が満点とは言いませんが、築地市場で営業できたのなら、豊洲でも可能だと思います。

 もう一点は、設計の問題というよりも、その前提の市場の物流の考え方が変わっており、それへの抵抗があると思います。
築地市場の豊洲移転と移転に向けた準備状況
 上記リンク先の記事によると、閉鎖型の施設では所定のバースで荷下ろし、出荷しなければならず、屋内の物流は共同化せざるを得ず、共同出資による物流組織が設立されているそうです。一方、築地市場では、定まった動線は無く、各卸売業者が「小揚」と呼ばれる専門業者によって複線的な物流を行っているようです。この方式は高コストらしいのですが、築地市場独自の商慣習と文化を作っているらしく、新しい方式そのものに抵抗があるのかもしれません。つまり、閉鎖型施設にするのか、築地市場のカオスな方式を踏襲するのかという基本的な点について十分合意ができていないように感じます。豊洲市場動線が駄目だという苦情は、閉鎖式施設の運営に不安があるからではないでしょうか。

 豊洲市場は、決して理想的でなく、欠陥や築地市場より劣る点も部分的にはあるかもしれませんが、総合的に劣るとはとても考えられません。しかし、移転できない根本的理由が欠陥施設という指摘とは別にあるとすれば、的外れの指摘を論破したり、もっともな指摘については改善しても、移転できない人は移転できません。移転できない原因が取り除かれていないからです。

 仮に、設計が悪く欠陥施設が移転を断念し廃業する大きな理由なら、移転延期後の数々の指摘によって、移転断念する業者が増えているはずですが、そういう情報はありません。前述の通り、移転延期まえの報道では、豊洲移転を契機に廃業する仲卸業者は50業者程度でしたが、それが増えたという報道はまだありません。また、上記リンク記事にも、仲卸業者が事業継続するか否かの判断のポイントは、①移転にかかる費用の負担感,②水産業水産物消費全般の将来的見通しに対する評価,③同業者の動向,④営業権の売却益に対する評価等と説明しています。更に、移転に反対する本質的な理由を次のように述べています。

量販店対応力向上を目指す豊洲市場の基本構想は,目利き力を発揮し専門鮮魚店や料亭等のプロを相手とすることを得意としてきた仲卸業者にとって,基本的に適合的なものではない。

【追記】
 本文に述べたように、欠陥施設指摘に個別に反論しても、もぐらたたきのようなものでキリがない。耐震性のようなものは、私でも反論できるが、市場の機能にかんする内容については無理なものもある。しかし、総括的に指摘が的外れで、少し馬鹿げているのは、指摘があまりに多すぎることから感じるところである。これではまるで、日建設計が無能者集団のようではないか。いや、無能者集団どころではない、意図的に間違いをしているという陰謀論でも持ち出さないと説明が付かないレベルである。チョンボはありうる(実際、日建設計はしている)が、致命的なチョンボなら一つあるだけで大問題である。ところが、豊洲市場では、耐震性不足、杭の耐力不足、液状化対策の不備、床荷重不足、建物の傾斜、動線の混乱、排水溝深さ不足、区画間口寸法不足、断熱不足、面積不足、駐車台数不足、等等。

 更に、確率的に、無能によるミスは、過剰設計と危険側設計が半々になる。ところが、豊洲市場への指摘はすべて危険側設計ばかりである。意図的に間違えなければほとんどあり得ないレベルだ。しかも、発注者の東京都、さらには建築主事もミスを見落とさなければならない。全員がグルになった陰謀とでも考えなければ、有りそうにない。それほどの陰謀を企てて、一体何の得があるのか全く分からないのである。