氏名―夫婦別姓でも同姓でも好きにすればいい

 夫婦別姓が一部で話題になっているので、少し調べてみました。

 

 歴史的経緯を含めて簡潔にまとめた資料を官邸が作っていました。「第8回 皇室典範に関する有識者会議」の資料4です。

 それによると、歴史的には、「姓」は公職を表すもので、個人を表す「実名」と組み合されて用いられていました。後に私的な「名字(苗字)」が発生しましたが、明治の始めまで公的には「姓+実名」が使われていたそうです。明治4年に公文書の「姓尸(姓)」が廃止され「苗字+実名」になり、明治8年の「平民苗字必称令」で国民すべてが苗字を称することになりました。ここでいう「実名」とは偽名の対語ではなく、個人を表す呼称という意味ではないかと思います。

  その後、戸籍法の改正などあり、現行の戸籍法の「姓(氏)」は、夫婦とその子という単位に付けられた名称になりました。当然、一単位には一名称なので、夫婦とその子は同じ「姓(氏)」になります。個人の区別は「名」でします。

 ちなみに明治民法では「戸主」を筆頭とする「家」を単位としていましたが、「家」の定義がどうも不明確です。「戸主」に強大な権限があり、血縁とは無関係に戸主が決められたように思えます。意外にも、現行の「夫婦とその子」のほうが血縁的です。

  歴史的にはいろいろありますが、現行戸籍法には夫婦同姓論者が言うような「家族の一体感」云々を匂わせる記述はありません。そもそも戸籍法には法の目的は書かれておらず、次のような戸籍の形式的、事務的な規定があるだけです。戸籍の整理の単位が夫婦とその子なので、同じ「姓(氏)」となっているだけじゃないかと思います。

・一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに編製される。(第6条)

・一つの戸籍の構成員は、戸籍の筆頭者と同じ「氏」を称する。(第6条)

・戸籍の氏名の記載巡は、①夫か妻 ②配偶者 ③子(出生順)(第14条)

 

 筆頭者とは戸籍の最初に記載された者で、その氏名と本籍で戸籍を表示します。面白いと思うのは、戸籍を表示する筆頭者の氏名は、亡くなっても残る(第9条)ことです。戸籍は子が結婚した時か子が子を設けた時に新しく作られ、構成員が全員存在しなくなるまで当初の筆頭者の生死にかかわらずその氏名で表示され続けます。

  さて、夫婦別姓のように家族という単位に複数の名称があると混乱しますが、他の家族と同じ名称でも混乱します。他と区別し、大げさに言えば「家族の一体感」のようなアイデンティティを示すのなら、唯一無二の名称でなければなりません。ところが同姓はありふれていて他の家族との区別という事務機能上も、家族のアイデンティティという精神的な面でも全く不十分です。

  歴史的な公職を表す姓は、その機能を果たしていました。一方、現在の「氏名」は実質的には個人を表しているだけで、所属集団を表す機能は殆どありません。ならば、戸籍も個人単位で整理しても良いと思いますが、ある程度のまとまりがあった方が整理に便利なので夫婦とその子という単位を採用しているだけかもしれません。

  その程度の意味しかない「姓(氏)」に対して、夫婦同姓論者にしても選択別姓論者にしても、思い入れがあり過ぎるように私は感じます。同姓論者は夫婦の一体感のようなもの、別姓論者は親からもらった姓への愛着のようなものです。その種の愛着は尊重されるべきですが、別に法で定める必要は無いでしょう。気持ちの問題ですから。

  現実には、戸籍の名称とは別の呼称を使っている場合は多くあります。気持ちの問題の場合もあれば、仕事の都合上の場合もあります。分かり安いのは芸名です。芸名にも様々なレベルがあって、同じ芸人が、場合によって、ユニット名を付けて呼ばれたり、個人名だけで呼ばれたりします。(「ココリコ田中」と「田中」)このような使い分けは状況に応じて行われ、戸籍名には制約されないことは言うまでも有りません。また、明治以前は屋号が使われていましたし、現在でも私的に「八百屋のケンちゃん」と読んだりします。また、仕事では役職を付ける場合がまだ多いです。

  私の父は、戸籍上は母方の姓になっていましたが、結婚前の姓で皆から呼ばれていました。その方が、商売上都合がよかったからだと思いますし、それで何か支障があったわけでもありません。皆が知っていて都合の良い通称を使うのに法的な根拠など一切必要ありません。

  とはいえ、芸名以外の通称の使用を職場が認めないことがまだあります。税金や社会保険、給与の振込みといった手続きには、戸籍上の名前が必要なので面倒だという理由のようです。でも、法的な制限は何も無いのに、面倒だという理由だけで通称使用を認めないのは過剰な制限だと思いますし、現在のICTでは簡単に処理できるんじゃないでしょうか。このような社会的制限の撤廃の必要性は感じますが、法改正の必要性は感じません。国会ではもっと大事な議論すればよいと思います。