喫煙文化

 愛煙家通信Web版http://aienka.jp/というウェブページがあります。愛煙家がたばこを愛でる文章を寄稿しているところかというと,少し違います。大部分の寄稿文が「禁煙ファシズムにもの申す」という分類で嫌煙運動への反論の場という雰囲気です。「禁煙しようと思っているが,嫌煙権運動に屈するようで嫌なのでまだ禁煙しない」というへそ曲がりいや反骨精神あふれるものもあって,これは愛煙家じゃなくて反嫌煙家ですね。「反嫌煙家通信」というのが実態かと思います。

 中には,北方謙三氏のように,葉巻の至福の一服を愛し,保存方法にも拘る愛煙家らしい文章もあります。嫌煙運動が起こる以前から喫煙文化を愛する愛煙家は存在していました。たばこを旨く嗜む為に,様々な喫煙道具が生み出され,たばこの種類にも色々有ります。現代の愛煙文化人とでもいう人々の中には,「たばこは健康に悪く無い」と無理のある非科学的なことを言う人もありますが,多くは健康問題ではなく文化の問題と考えているように思います。端折って言えば,「体に悪かろうと好きで嗜んでいるのだから,余計なお世話である。他者の愛する文化を奪う権利はない」という主張で,それは全くその通りだと思います。

 少なくとも私は,愛煙家の個人的嗜好にとやかく注文を付けません。有害なものを商売にすることを問題にしたいだけです。嫌煙運動の主なターゲットは愛煙家ではなくたばこ産業であるべきだと思います。生レバーを食いたい人は自由に喰って構いませんが,代金を頂いてお店で提供してはいけないようなものです。もう一点は,受動喫煙の問題で,愛煙家の個人的嗜好をたばこの嫌いな人にまで公衆の場で押しつけるなです。

 愛煙文化人と嫌煙運動の議論にはそこにすれ違いがあるように思います。別に愛煙家の愛する文化を否定したいのではないので,被害妄想にならないで頂きたいと思います。と言いながら,喫煙文化は文化と言えるほどのものなのかという疑問も私は持っていて,それがこの後に述べたい本論です。

 失礼ながら喫煙文化は,他の文化,例えば食文化に比べると内容が貧相です。食文化は何と言ってもそのバリエーションが桁違いです。調理技術や道具,保存方法,飲食方法マナーなども様々です。さらに食に付随する派生的文化も生み出しています。食器や食卓や食堂は食環境を豊かにするものですが,食から独立してお皿を床の間に飾って観賞したりしています。

 それに対してたばこの種類は限られますし,付随する喫煙道具に味わい深いパイプなども有りますが,愛煙家以外が独立して観賞するまでには至りません。そして,最も大きな違いは,喫煙文化を楽しんでいるのは,ごく一部の愛煙文化人だけであることです。北方謙三氏のように様々な葉巻をTPOで楽しんでいるような人は稀です。ほとんどの人は,ほぼ1種類の銘柄を吸い続けています。喫煙文化を楽しんでいるというよりも,吸わざるを得ないから吸っているだけではないかという疑いがあります。子供の頃に親に「たばこって旨いの」と尋ねたら「美味しいとは思わない。止められないから吸っているだけ。お前は吸うな」と言われたのが印象深い記憶として残っています。統計を取っているわけでは有りませんが,私の周囲の喫煙者は大体そんな感じです。

 よく「至福の一服」と言いますが,これって「空腹で食べるのが最高のごちそう」と同じではないでしょうか。禁断症状が解消しただけじゃないかと思えるんですね。私が喫煙者に尋ねた範囲では,たばこの旨さはたばこの種類によるのではなく,体調次第のようです。たばこはプラスの快感を与えてくれるのではなく,マイナスのストレスをもたらし,それが解消される落差の大きさをプラスの快感と錯覚しているのではないでしょうか。その証拠と言うわけではありませんが,初めてたばこを吸った時から旨いと感じた人はほとんどいないことがあります。むしろ気分が悪くなるわけで,マイナスの状態にならないかぎり快感を感じることが出来ないようにみえます。

 文化は物語や想像力で脳内に錯覚を作り出し快感や感動をもたらしますが,たばこは単に肉体的生理的作用による脳内錯覚じゃあないのか思います。これを文化というのなら,麻薬も文化です。まあサイケデリック文化という言葉も有りますので,「文化」という言葉に拘っているわけではありません。文化だとしてもたばこの薬理作用にほとんど依存する発展性のない文化だということです。無理に発展させると肉体的破滅を招きかねません。

 ただ,全く物語や想像力の要素がないかというとそうではありません。たばこには大人の雰囲気や退廃的気分というイメージが付着しています。昔はそれを利用した文学や映画が沢山ありました。「紫煙」という情緒ある言葉も有ります。もっとも今では使うのが憚られるほどに陳腐化してしまいました。子どもの最初の喫煙にはちょっとしたハードルがあるので,大人の世界への通過儀礼的なところがあり,悪徳のイメージが出来上がっただけに思えます。ステレオタイプの芸術家はそういう悪徳を好むようで,実はわたしも結構好きです。悪徳の魅力には逆らえないものがあります。しかし,悪徳はあくまでアングラの世界の少数派でなければなりません。悪徳が大衆化すると集団愚行に陳腐化します。

 実はたばこ産業がこの悪徳の魅力を宣伝に使っていたのはご承知のとおりです。子どもの世界では喫煙者は少数派ですので,悪徳の魅力が効果を発します。「良い子ちゃんじゃないんだ」と大人の世界に背伸びさせることができました。しかし,今やたばこをくゆらすかっこいいカウボーイというイメージは陳腐化してしまいました。今でもそのイメージに魅力を感じるのは,私と同世以上の老人ぐらいかと思います。