定義論争はさておき,曾野綾子氏の居住分離とはどんなものか想像してみる

荻上チキさんの曾野綾子氏への直撃インタビューを聞きました。
http://www.tbsradio.jp/ss954/2015/02/20150217.html

 予想された事ですが,曾野綾子氏は「アパルトヘイトをいいとも思わない。国が居住地域を分けるべきだなんて言ってない。これは差別でなく区別。それの何が悪いのか分からない。社会の方々の知恵で,区別の仕方を考えるべき。それを考えてくださいという提起で書いた。権力で決めるのではなく,自発的に日本人村のようなコミュニティができればいい」と弁明しています。

 実際に差別的言動をしていても,自ら差別主義者と自称する例は殆どありません。別にウソをついているのではなく,自覚がないだけと推察します。とはいえ,悪い「差別」ではなく,単なる「区別」に過ぎないと言う以上,「差別」と「区別」の違いをはっきりしてもらわなければなりません。ただ,こういう線引き問題というか定義論争は,議論が抽象的になって,不毛に終わる可能性が高くなります。それよりも,その人の言う「区別」の具体的内容の是非を吟味した方が話がはっきりします。

 そこで,曾野綾子氏の「居住地を分ける」とはどのようなものなのか吟味してみます。ただ残念なことに,曾野綾子氏自身,明確に述べてくれません。世間が熱くなっている今,これ以上の説明は控えたい旨のことをインタビューで答えています。それでも大雑把には次の様に説明しています。氏曰く,「自主的に同じ人種が集まるもので,制度的な強制ではない。差別と言われる理由が分からない」。後からの弁明ではそう言っていますが,元のコラムではそこまで明確に書いてありません。どちらかと言えば制度的分離を臭わす書き方になっています。何しろ,アパルトヘイト崩壊後のマンションへ黒人が入居した結果のトラブルを例に挙げて,「居住地は別が良い」ですから。アパルトヘイト復活を望んでいると読むのが普通でしょう。これは不用意であったというレベルではありません。

 そもそも曾野綾子氏は,自主的集合と制度的分離の区別など意識していなかったと推測できる記述や弁明があります。チャイナタウンやリトルトーキョーの住みやすさを言う際に,法的制限のある都市計画法の地域区分を持ち出すことからも,それは伺えます。コラムでも家族の介護と職業的介護を一緒くたにしていました。原点は,クサヤの干物を近所に気兼ねすることなく炙って食べるには,リトルトーキョーのような街は良いと言う程度の個人的趣味嗜好に過ぎないと,強調しています。多分,原点はそうかもしれません。

 ところが,コラム記事は個人的趣味嗜好を述べるだけというトーンになっていません。「居住だけは別にした方がいい」と,社会に向けて何かを提言しています。インタビューでも「社会の方々の知恵で,区別の仕方を考えるべき。」と言っています。これは危険なことですよ。何も考えることなく,素朴な子供っぽい趣味嗜好をそのまま制度にしてしまう恐れがあるからです。気心の知れた同国人と暮らしたいという素朴な感情から次第に異人種の排斥に変化してしまう恐れもあります。くさやの臭いに耐えられない外国人が隣に来られたら,気兼ねなく食べられないので来てもらっては困るともなりかねません。差別は素朴な感情から生まれますので,歯止めを明確に意識しておかないと,知らず知らずのうちに他者を傷つける差別を行ってしまいます。原点は悪意のない素朴な感情だとしても,差別への歯止めがないことを前述のようにいくつも露呈しています。愛情があれば職業介護でも衛生的知識は不要と言ったり,法的地域区分を住民による自発的街形成と同列に考えたりですが,決定的なのは言うまでもなく,南アフリカの例を持ち出したことです。

 個人的な趣味嗜好と社会制度的規制の関係で重要なことがあります。実は曾野綾子氏もそれを無意識に感じていると感じさせる弁明があります。「社会の方々の知恵で,区別の仕方を考えるべき。それを考えてください」という提起です。くさやを気兼ねなく食べたいという個人的希望だけなら,自分で何とかすれば良く,社会で考える必要は無いからです。社会で考えて実効性のあるものにするということは,制度的な規制をすると言うことです。制度的な規制でなくとも,習慣や社会倫理の「意識改革」でも効果があります。むしろ後者の方が「心の差別」として効果が大きいかもしれません。個人の自由を守る規制は別の個人の自由を制限するという背反関係にありますので,規制と個人の自由のバランスは極めて難しく,かつ重要です。

 曾野綾子氏は,くさやを気兼ねなく食べたいだけ,制度的に他者を制限する気はないと言いますが,制限しないと,その希望は十分かなえられないという厄介な問題があるのです。インタビューでも言っていましたが,リトルトーキョーのような民族街は次第に周辺に同化していく運命にあります。それは時代の流れですから逆らえません。どうしても食い止めたいなら制度的規制が必要になります。歴史的景観を守るために景観条例を作るようなものです。美しい景観を守るためと同様に,美しい日本の文化を守るためにも規制を行うということは,現実に行われています。

 この種の規制は,他の一般的な規制よりも特殊で自由の少ないものになります。例えば,建築基準法には「建築協定」という制度があって,住民が自主的に建築基準法に上乗せ規制をすることができます。街の景観や雰囲気を守りたいなどの目的で使われますが,見方によっては,特権的な住民エゴを保護する制度とも言えなくもありません。その地域に住むことにある種の制限を課すことになるからです。大抵の場合その制限は,経済力に帰着します。ですから,社会全体の経済力とのバランスを考慮しないと,それこそ特権階級のみの会員制クラブのような地域を作ることになってしまいます。

 もちろん,会員制クラブは日本にも存在していて,存在意義もあります。社会全体からそれほど乖離していなければ,目標として社会全体のレベルアップの原動力になります。昔は特権階級しか入会できなかったゴルフクラブにも,今では普通のサラリーマン会員がいます。会員制ですから誰でも良いというわけではありませんが,それなりの条件を満たしていれば平均的サラリーマンでも歓迎してくれるはずです。ところが,大昔の貴族のサロンに平民が出入りできる望みは殆どなかったはずです。仮に平民が出入りすれば,サロンの維持は困難になり破綻したのではないでしょうか。件の南アフリカのマンションとはその類でしょう。

 つまり,曾野綾子氏の提唱する居住分離とは,社会の多数派によって維持されているにも拘わらず,極少数しか住めず,多数派が流入してくれば破綻してしまうような特権的な分離だと想像できます。労働移民についても同様です。特権的な日本国民の生活は格安な労働移民なくしては維持できないのですが,労働移民が日本国民と同じ居住地に住み,同じような生活を始めたら特権的な生活は破綻してしまうのです。労働移民を格安で使えるのは,特別な知識も資格も不要な単純労働をやらせるからです。同じ仕事を日本人が行う場合に必要な知識や資格だとしてもです。

 しかし,いずれ労働移民も日本人と同化してしまいます。歓迎すべきこの変化を阻止するには,制度的に分離しなければなりません。現在では南アフリカのマンションに黒人も沢山居住していると思いますが,多分給水設備は破綻していないでしょう。これが気に入らなければ,制度的に分離を行えばよいのです。そうすれば,黒人が入居すれば破綻するようなマンションも存続可能です。

【2/19】
荻上チキさんの曾野綾子氏への直撃インタビューの書き起こし版が出ました。
http://p9.hatenablog.com/entry/2015/02/18/205213