信用創造の錯覚

 財政赤字についてあれこれにわか勉強していたら、銀行について素朴な誤解をしていることに気づかされました。

 「銀行は、家計や企業から預金を集め、集めた預金を家計や企業に貸し出す。」

 昔々、学校で習ったことですが、これまで疑うことなく過ごしてきました。実際の銀行はそんなことしていないと知ったのはついこの間の事です。そういわれてみてあらためて考えてみれば、この俗説は確かに奇妙です。

 私は、銀行が融資する時、その裏付けの現金を持っていると思っていました。裏付けの現金は家計や企業から集めたもので銀行の金庫に保管されていて、現金との引き換え証が預金通帳だと。融資する時に金庫の現金を手渡すのではなく、融資先の預金通帳に金額を書き込むだけだということは流石に知っていましたが、いつでも引き出される可能性があるので、その時に備えて金庫に預金相当の現金が必要と思っていたのでした。

 でも、引き出しに100%備えるのであれば、金庫の現金では全然足りませんね。引き出す可能性があるのは、融資先だけでなく、最初に預けた顧客も同じです。最初に100万円の預金が預けられていたとすると、融資後の預金は100万円ではなく200万円になります。これはいつでもひきだされる可能性がある債務です。取り付け騒ぎがあれば銀行は破たんしますが、それは、預金相当の現金を銀行は持っていないということを意味しています。

 そもそも、俗説でも取付騒ぎは起こらない前提です。預けられた現金はすぐには引き出されないからこそ、別の誰かに貸せると考えているわけですから。それでも、融資が現金で行われるなら俗説は間違いとは言えません。しかし、現実の融資は預金通帳に100万円と書き込めばよいだけで、預けられた現金がなくても可能です。その預金を融資先が決裁に使い、現金引き出されるまでに、返済されれば良いわけです。預金の裏付けは金庫の現金ではなく、返済が確実に行われるという見込みなのですね。

 とはいえ、時々は、預金から現金が引き出されることもあるので、ある程度の現金を持っておく必要も銀行にはあります。ただ、その額は、預金の1割程度でよいことが経験的に知られていたそうです。銀行の前身は、金細工師と言われる人々で、金を預かって保管料を取るという商売もしていたそうです。金を受け取った時に与り証を発行しますが、これが現在の預金通帳に相当します。預かり証は、保管料を払っていれば、金と交換できるので、通貨として流通するようになりました。そして、通貨として流通したまま、金に引き換えられないものがあることに金細工師は気づいたそうです。なんと引き換えに戻ってくるものは1割程度しかなかったということです。ならば、預かっている金の9倍までの預かり証を貨幣として発行しても大丈夫です。金細工師は金を預からずに金利を取って、預かり証を貨幣として貸し付けるといううまい商売をするようになったとのことです。(詐欺か、錬金術か。ただの紙切れが「1万円札」になる本当の理由=吉田繁治)

 

 金細工師がしたことは、預かった金を他の人に貸し付けたのではなく、なんの裏付けもない預かり証を貨幣として創造して貸し付けたわけです。現代の銀行の融資も基本的に同じことです。裏付けのない預かり証や預金を貨幣として信用させるので「信用創造」と言うのでしょうね。一見詐欺めいて見えますが、金細工師や銀行は野放図に貸し付けているのではなく、返済の見込みを見極めています。つまり、返済できるということは、事業に成功し、付加価値を生みださなければならないので、それを見極めるという重要な仕事をしていると言えます。

 ただ、預かり証が通貨として信用されたのは、金の裏付けがあるという錯覚でした。同様に、銀行預金の信用も誰かが預けた現金が存在しているからと私は錯覚していました。そして、どうも私に限らない様です。「信用創造」という概念の説明には、「又貸し説」という錯覚があるらしいのです。信用創造の又貸し説は、日本版Wikipediaで次のように説明されています。

預金準備率が10%の時、銀行が融資を行う過程で以下の通り信用創造が行われる。

 1.A銀行はW社から預金1,000円を預かる(そのうち900円を貸し出すことができる)。
 2.A銀行がX社に900円を貸出、X社が900円をB銀行に預金する(そのうち810円を貸し出すことができる)。
 3.B銀行がY社に810円を貸出、Y社が810円をC銀行に預金する(そのうち729円を貸し出すことができる)。
 4.C銀行は729円をZ社に貸し出す。

A銀行は1,000円の預金のうち、100円だけを準備として残り900円を貸し出す。A銀行が貸し出しを行うと貨幣供給量は900円増加する。貸出が実施される前は貨幣供給量はA銀行の預金総量1,000円のみであったが、貸出が実施された後の貨幣供給量はA銀行預金1,000円+B銀行預金900円=合計1,900円に増加している。このとき、W社は1,000円の預金を保有しており、借り入れたX社も900円の現金通貨を保有している。この信用創造はA銀行だけの話ではない。X社がB銀行に900円預金することで、B銀行が10%の90円の準備を保有し残りの810円をY社に貸し出す。さらに、Y社がC銀行に810円預金することで、C銀行が10%の81円の準備を保有し残りの729円をZ社に貸し出す。このように、預金と貸出が繰り返されることで、貨幣供給量が増加していく。

 

 ごちゃごちゃと書いてありますが、預けられた現金を銀行が貸し出して、借りた人が又銀行に預けると預金ができ、それを繰りかえせば預金は元の現金以上に増殖するということです。この説明では、現金で貸し出すという過程が前提です。なぜなら、A銀行のW社の預金から、B銀行のX社の預金に直接、振込むなら、預金の総額は変わらず、「創造」されないからです。一旦、現金で貸し出し、それを預金することで「創造」していると考えているわけですが、現実には現金の介在は殆どありません。このような現実と違う説明がされるのは、信用創造には裏付けの現金が必要という錯覚があるからではないでしょうか。

 実際には、今までの説明の通り、預金に現金の裏付けは不要で、信用から「創造」されます。又貸し説では、誰かが現金を銀行に預金した時に通貨が創造されることになりますが、返済の信用があれば預金通貨は創造されます。

 なお、日本版Wikipediaの説明の仮想例では「預金準備率が10%」とありますが、同じWikipedia準備預金制度の説明では0.05~1.3%とあり全然違います。実際の日銀の発表もその程度です。10%とは、前述のように預金のうち現金化される比率であり、通貨(現金通貨+預金通貨)に占める現金通貨の比率にほぼ相当します。これと預金準備率は桁違いですので、別物のような気がします。ところが、準備預金は、「金融機関が保有している顧客による預金引出しに備えるための支払準備金」と説明されています。これもまた間違いのような気がするのですが、どうなのでしょう。

財政赤字は、家計の赤字ではなくお母さんの財布の赤字

 「国債を家計の借金に例えられるか?」で述べた大家族の家計はお母さんが付けています。それとは別にお母さん個人の財布もあります。お母さんは無収入なので、その財布への収入は、働いているほかの家族から徴収していますが、徴収して自分の為だけに使うのではありません。お母さんは家族全員のことを考えていますから、家族共通に必要なものは、その財布から出費しています。

 お母さんの役割は大変で、家計を健全に維持しないといけません。家族の収入が減れば、家計の支出を抑えるだけでなく、家族の収入を増やすための支出に自分の財布から出費しなければなりません。

 ところが、日本家のお母さんは、家計簿をつけておらず、自分の財布にしか関心がありませんでした。家族の収入が減っているのに、家族からの徴収額を増やし、家族共通に必要なものへの支出を減らし、自分の財布の赤字を無くそうとしました。その結果、家族の収入はさらに減り、家計はますます厳しくなりました。

 お母さんの行動にはもう一つ理由がありました。少し前は、家族の収入は好調でした。というか好調過ぎました。お金余りのインフレになったので、お金を眠らせて価値を減らしていくよりはと、家族のだれもがお金を消費したり投資して更に収入を増やそうとしました。ところが、投資によって生み出されるものの値段が、家族の購買力や需要を超えてしまい、価格が暴落しました。お母さんは羹に懲りて膾を吹いたのでした。

 現状は羹なのでしょうか。それとも膾なのでしょうか。私には膾に思えるのですが。

企画総務部が赤字の会社はつぶれるか

 前記事に引き続き、国の赤字や借金について考えてみます。今回も例え話なので大雑把な話だと思ってください。厳密に語る知識も能力もないので、ご容赦願います。

■ 企画総務部も独立採算制の企業

 政府は各部門が独立採算制の企業の企画部というか総務部的なところがあります。企画総務部は、何も生産していませんし、企画総務部だけで独立して存続することは出来ません。独立採算制を企画総務部にも適用すると、その会計では収入がなく支出だけですから赤字になるに決まっています。かといって、それで企画総務部や会社が潰れるわけでもありません。

 赤字とは、収支の収入の部に借金のようなものが計上されていることですが、企業外からの借金以外に、他の生産部門が上げた収入の一部が繰り入れされているだけの場合があります。国の会計では、それがほとんどで、税金や国債に相当します。また、支出の部には、部門共通の設備投資への支出が企画総務部の会計に計上されたり、各部門の個別設備投資が高額な場合は、企画総務部が支出しても良いわけです。もっともそも出所は、他の部門です。企業外部からの収入は企画総務部にはありませんから当然です。

■企画総務部の役割

 つまり、企画総務部は各部門の資金の融通を調整していることになります。場合によっては、企画総務部を介さずに各部門が直接、貸し借りする場合もあるかもしれません。企画総務部を介するのは、企業としてどの部門を強化するかなどの経営判断がある場合でしょう。また、多数の部門が絡む場合、一旦、企画総務部にプールして、各部門に分配するほうが円滑に行えます。銀行的な役割と言えます。

 企画総務部会計が赤字になるということは、企業として何か深刻な問題があるのでしょうか。それは、一概には言えませんが、企業全体が黒字なら多分、問題ありません。その場合の赤字の実体を考えてみると、単に、黒字の余裕のある他の生産部門からの形式的な借金に過ぎません。借りた金は、別の部門に投入されますが、それは元の部門で眠らせておくよりも、別の部門に投資したほうが良いという判断があるわけです。

 このように、独立採算と言っても、各部門が全く独立しているわけではなく、部門ごとに会計があり、企画総務部がそれらの融通をある程度制御していて、それが企画総務部の役割です。

 国の場合、企画総務部会計のようなものが国家会計と呼ばれ、目に見える形で存在しますが、企業全体の会計に相当するものが、明確な形で存在しません。このような事情が、政府会計の赤字に過ぎないものを国の赤字と錯覚させているのではないかと思います。

■赤字の何が問題か

 ところで、国全体の収支会計をあえていえば貿易収支だと思いますが。これも赤字だとよろしくないのか実は私にはよくわかりません。米国は長年赤字ですが破綻していません。世界全体で見れば、赤字と黒字は釣り合わなければならないので、赤字国家は必ず存在します。赤字でも交易が途絶えなければ良いわけで、途絶えない根源は何なのかです。企業も赤字だから潰れるわけではなく、お金が回っていれば大丈夫と言われます。お金が回るとは銀行が融資してくれることで、銀行は何を根拠に融資するのかです。

 なんとなく、分かる様な気がしますが、明確に述べられるほどまだ理解していません。

国債を家計の借金に例えられるか?

 国債を家計の借金に例えるのは間違いだと思いますが、腑に落ちる説明がいまいち見つけられません。例えば、「国は通貨をいくらでも発行できるから借金を返せないことはない」という説明がありますが、これだけで納得する人は少ないでしょう。野放図に発行すれば貨幣の価値がなくなるだけですから、貨幣とは何かというところから説明する必要があります。ところがそういう説明をすればするほど、専門的な細部に入り込み門外漢には理解が困難になります。

 結局、理解するには頑張って勉強するしかなく、王道はないのでしょう。それでも、大雑把な骨格みたいなものだけでも簡単に説明できないだろうかと、ど素人の私が無謀にも、そして例によって例え話で考えて見ました。専門家ですら簡単に説明できないのですから、現時点の私の理解を整理したものでしかないことを最初に言い訳として述べておきます。変なところがいろいろあると思います。

■ 国債は政府や行政組織の借金ではない

 家計の借金は、その家の消費や投資のために、外部から借りるものです。しかし、国債はそういうものとは少し違うと思えるのですね。例えば、国の支出には、政府や行政の消費のためのものがあります。役所の建物のような公用財産の取得などです。しかし、それらが支出に占める比率はごくわずかです。支出の多くは、道路や公共施設のような公共財産の類です。これらは、国や行政機関が使うためではなく、国民が使うものです。

■ 自分自身への借金?

 国民が使うものへの支出のための国債は国民への借金と言えるでしょうか。借金だとしたら、政府は国民ではないのでしょうか。国民が使ったり、投資するための支出は、国民自身が負担するものです。ですから常識的には公共的な支出の財源は税金で賄うと考えられていて、国民のために使った税金を返済する必要のある借金と考える人はいません。ところが、本質的な使途は同じであるにもかかわらず、国債は借金扱いです。何故でしょうか。
 
 家計に例えれば、家族の食費を家族の誰かが家族から借りて、食べさせてあげた上に、利子をつけて返しているような奇妙なところがあります。家族のだれかではなく、家族の外部に奇特なスポンサーがいてただ飯を食わせているのでもない限り、ありえないことです。しかし、家族が外食した時、その時十分な持ち合わせがあった家族の一員が建替え払いをして、後で返してもらうという状況はあり得ます。

■ 家族全員の一部の家族への借金

 家計を支える家族が沢山いる大家族を考えます。日常的な食費などは、各人が収入に応じて家計にいれた税金のようなもので賄っています。ところが、家を建てるような大きな支出となると、新入社員の安月給の家族もいて負担出来ません。負担の分配をどうするかも揉め事の種です。一方で個人的な貯蓄が余っている家族もいるのなら、とりあえずその家族に負担してもらい、あとで返すという方法が可能で、しかも迅速に家を建てられ、家族全員がその恩恵を受けられます。

■ とりあえず内部経済に限定

 ただしこの例えは、多少修正を加える必要があるかもしれません。通常、家を建てるような大事業は、家族の外部の工務店に依頼します。しかし、国債の例えとして考える場合、家族の一員に工務店がいると考えたほうがピッタリします。つまり内部経済です。それに付随して、家族内の貸し借りは家族内でのみ通用する家族通貨のほうが良いでしょう。財務大臣の母親が家族債を発行し、貯金の余裕のある長男に買ってもらい、家族通貨でもって、工務店を営む次男に家を発注します。家族通貨それ自体に価値はなく、家族間の貸し借りの記録みたいなものです。なので、紙幣や硬貨という物体である必要はなく、帳簿への記録でも十分です。単なる貸し借りの記録ですので、通貨量の制限のようなものはありませんが、次男が現実に家を建てることができるという裏付けは必要です。

■ 母親は長男と次男の貸し借りの調整仲介役

 以上の取引で実体的に貸し借りをしているのは、長男と次男です。財務大臣の母親はその取引が場所や時間に制限されることなくスムースに行われ、家建設という生産が実現できるようにする調整仲介役です。母親が自分の化粧品を買うために借金しているわけでは有りません。家族債は経済と生産活動を促進する触媒のようなもので、それが効果を発揮すれば、実質返済されたようなものです。利息だけ受け取って、借り換えを続けても、つまり返済清算をしなくても良いのではないかと思います。そのあたりの事情は株に似ています。会社が解散されないのなら、株は売らないで持ち続けても構いません。

。もちろん、運用を間違えれば、デフレやハイパーインフレを引き起こし、家族経済を阻害しますから、母親の役割は重要です。株式会社の経営陣の役割が重要なのと同じではないでしょうか。

■ 重要なのは家族運営

 重要なのは、現在の状況で家建設という事業を行った方が良いのか、行わない方が良いのか、行うなら、どのように進めればスムースなのか、そして家族の経済と生産活動が発展するかという家族経営だと思います。それがうまくいけば、家族債の借り換えも成立し、家計の破綻の心配はありません。一方、失敗すれば、家族全員が経済的に困窮します。家計の破綻というのは、それに付随した二次的な現象に過ぎないのではないでしょうか。

直観が外れた(バネの落下)

Togetter バネの落下
 このまとめの最初に出てくる動画を見て、直観的にフェイク動画だと思いました。時間をかけて考えだしてからもしばらくはそうだと思っていました。しかし、まとめをざっと読むと、どうも本当のようです。読むと言っても、数学的なことはほとんど理解できないのですが、他の人が実験撮影した動画も同じ動きをしていたのが決定的でした。そして、私が勘違いした理由がなんとなく分かってきました。私は、概ね次のように考えました。

■私の直観

 連続体のバネは面倒そうなので、手始めに簡単な質点モデルを考えました。質点数を増やして行けば、連続体の近似になると思ったからで、とりあえず。図に示すような3つの質点を、自然長(力が食わっていないときの長さ)ゼロで、質量もゼロのバネでつないだものを落下させる場合を考えました。手に持ってぶら下げて静止している状態では、下のバネの張力はmgで上のバネの張力は2mgです。手には3mgの力が加わっています。

 手を離した瞬間は、下の質点に食わる力は重力のmgとバネの張力-mgで釣り合っていますので動きません。同様に真ん中の質点も静止しています。しかし上の質点は、手の反力がなくなり、重力mgとバネの張力2mgだけが作用しているので、加速し始めます。

 微小時間Δt秒後には、上の質点はわずかですが下に移動するので、上のバネが少し縮み、張力も減ります。そのため、真ん中の質点に作用する力もつり合いが破れ、下向きに加速を始めます。しかし、下のバネは力が釣り合っていますので、まだ静止したままです。

 2Δt秒後には、真ん中のバネも縮むので、下の質点のつり合いも破れ動き出します。十分に短い2Δtを考えれば、上の質点は下の質点まで達していませんが、下の質点は動き出すということになります。

f:id:shinzor:20190509103448j:plain 以上の考察は、質点数を増やしても成り立つので、極限の連続体のバネも同じはずだというのか私の直観でした。連立運動方程式も簡単に書けるので、数値計算すれば結果は確認できるはずです。

■錯覚はどこか

 この考察のどこが間違っていたのかというと、おそらく、バネの張力はその長さに応じて、どの位置でも同じだという仮定が間違っていたのだと思います。言い換えれば、バネはどの部分も一様に縮んでいくという仮定です。建築物を串団子にモデル化して解く場合もそういう仮定です。バネ(串)上下の剪断力の変化という面倒なことは考えずに同じ時刻では同じと考えますので、疑問に思いませんでした。しかし、良く考えて見れば、バネの上端の動きが一瞬で下端に伝わるという仮定ならば、そのバネを多数つないだ場合も一番下のバネの下端も最初から動くのは当たり前です。結論を仮定した典型的な錯誤です。

 建築物の振動の場合は、比較的長い時間を考えますので、瞬時伝達するバネでも十分な近似になりますが、一瞬のバネの落下を考えるような場合は適当なモデル化ではないのでしょう。例えば、バネを両手で引き伸ばして、右手を離せば一様に縮むかというとそうではなく、右から左に折りたたむように張力ゼロが伝わっていくのだと思います。両手を同時に話せば、両端から折りたたむように縮んでいき、最後に真ん中が張力ゼロになるのでしょう。

■いろいろ見解があるらしい

 ところがですね、バネの下端はバネが縮みきるまで動かないという説明と僅かに動くが重心の落下に比較してオーダーが小さいので動かないように見えるという二つの説明があるらしいのです。どちらが正しいのかよくわかりませんが、後者の説明は、私が最初に考えたように質点をバネでつないだモデルで考えているような気がします。バネ全体が同時に縮む、すなわち上端の境界条件の変化が瞬時に下端に伝わるというモデルでは、一番下の質点も最初から動き始めます。質点数が多いと、その動きは非常に小さくなるにしても、Δtの質点数倍後には動き始めます。

 連続体の質量を持つバネで考えれば、一端の境界条件の変化が、他端に伝わるには時間を要するはずだと思います。質量のないバネならば、一瞬で伝わるのかもしれませんが、そのあたりはよくわかりません。いずれにせよ質量のないバネは実在しません。

■錯覚の原因(瞬時の現象)

 最初に動画を見たときにうさん臭いと思ったのは、バネが上端から折りたたむように落下している様子からでした。バネは全体が一様に縮むはずだという思い込みがあったわけです。それは、バネを手で持ったままゆっくりと縮めるという日常的に経験していることからの類推に過ぎませんでした。また、動画では手で持ってぶら下げている時のバネは揺れていたのに、手を放してからは揺れがなくなったのもCG臭い感じがしました。でもそれは、非常に短時間のスローモーションなので揺れの動きが少なかっただけでしょう。スローモーションも日常的には経験しない世界です。

 日常的な感覚を無制限に適用してはいけないと分かっていても、しでかすものですね。バネを落とすだけの実験が非日常的な世界だとは全く思いませんでした。

P値

「統計的有意」には弊害があるとして800人以上の科学者が反対を表明(Gigazine) 

有意差検定では実験の計測結果から「P値」と呼ばれる確率変数を計算します。例えば、実験結果が起こりえる確率が95%以上である場合は、P値は0.05以下になります。慣例的に科学者は「P値が0.05以下、つまりこの事象が起こりえる確率は95%以上ならば、この実験結果は偶然ではない」と判断し、「有意である」としていました。当初、「有意であるかどうか」は「この実験結果は95%以上の確率で起こりえる」ということを示しているだけのはずでしたが、次第に「有意かどうか」が研究結果の結論を左右するようになり、「研究が発表されるかどうか」や「実験が助成金を受けられるかどうか」などまで支配するようになっているとのこと。

 この記事のP値の説明が酷いと、何人かの方が指摘しています。P値の正しい説明は、例えば、コインに偏りがあるという仮説が正しいか判断したいときに、仮説と逆にコインには偏りがないという仮定の下で、実験結果が起こりうる確率を計算したものです。このP値が非常に小さいならば、偶然に起こりうる可能性は小さいとして仮説を棄却します。

 これに対して、記事の説明は、特に仮定なしで、つまり、現実のコインで実験結果が起こりうる確率というものを考えています。しかし、現実のコインに偏りがないのか、有るのか、有るとしたらどの程度の偏りなのか、全く分からないのですから、計算しようがありません。ある偏りを仮定すれば計算できますが、面倒臭いし、どの程度の偏りにするか決める手立てはありません。結局、偏りがないという仮定(帰無仮説)のもとで実験結果が起こりうる確率を計算して、それを棄却するという回りくどいやり方が実用的というわけです。

 今では、私もその事情が分かったつもりになっていますが、初めて検定について勉強した時、何故こんな回りくどいやり方をするのか理解できませんでした。また、帰無仮説が棄却できない場合も、積極的に帰無仮説が成立するという意味ではないと解説してあるのですが、その意味もわかったようなわからないようなあやふやでした。

 もう一点、分かりにくいのは、検定とは、実験結果から、コインの状態を推測する事後確率の問題であるはずなのに、そういう計算をしていないことです。具体的にいうと、本来は、コインを投げたとき2回とも表が出た場合に偏りのないコインである事後確率を知りたいのに、実際に行っているのは、偏りのないコインを2回投げた時に2回とも表が出る確率を計算しています。それは、事後確率の計算は、現実的には大変だからでしょう。とはいえ、極めて単純な現実を設定すれば計算可能で、試しに計算してみると、帰無仮説が棄却できない場合も、積極的に帰無仮説を支持するわけではないことも実感できます。

【極めて単純な現実】
コインには、表と裏の出る確率が同じ1/2の偏りがないものと、表が1/3で裏が2/3のものと、表が2/3で裏が1/3の3種類が同数あるとする。

【実験結果】
1枚のコインを抜き出して2回投げたら、2回とも表が出た。

帰無仮説の検定】
抜き出したコインが偏りのないものである(帰無仮説)ならば、2回とも表が出る確率は、1/2×1/2=1/4。
検定の危険率を5%とすれば、1/4はそれより大きいので、帰無仮説は棄却されない。

【実験結果より事後確率の計算】
偏りのないコインである事前確率は1/3であり、2回とも表が出た場合の事後確率は、ベイズの定理を使えば機械的に計算できるが、ここでは、直観的にわかり安くするため、しらみつぶしに場合分けして計算する。(下図参照)

 結果は、9/29となり、1/4とは違います。また、前述の通り、帰無仮説は棄却されませんでしたが、だからと言って、積極的に偏りがないと主張できるわけではないのは、表が出やすいコインである事後確率の方が大きいことからよく分ります。更に、帰無仮説が棄却された場合も、どの程度の偏りのコインであるかはわかりません。全く偏りのないコインは現実には存在しませんし、そのような僅かな偏りも多数の実験を行えば検出できますからね。

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死亡率を下げる効果のない検診で見つけたがんの治療を行ったほうが良い理由は理解できていない

 甲状腺がんの治療に関して,次のツイートをしました。

 しばらくしたら,ublftbo(TAKESAN)さんから、「心理ではなく知見(に拠るガイドライン)です。」というはてぶコメントを頂きました。確かに、ublftboさんのおっしゃっていることの方が正確だと思います。

 では、何故「心理」という表現にしたかというと、以前にNATROMさんに、何故、死亡率を下げる効果のない検診で見つけたがんを治療するのかという質問をしたところ、「端的に言えば「そうは言うても見つけてしまった以上は治療しないわけにはいかないやんけ」って感じです。」という返事をもらったからです。

 ただし,NATROMさんは,ublftboさん同様に,ガイドラインでは「手術適応」になるとおっしゃっていて,その主旨の次のツイートが発端なのです。

「症状のない人に膵臓がん検診をしたほうがいいか」という問題と、「他の病気に対する検査で偶然見つかった無症状の膵臓がんを治療したほうがいいか」という問題は別です。現時点のコンセンサスは「膵臓がん検診はしないほうがいい」「発見された膵臓がんは無症状でも治療したほうがいい」です。

 でも,私にはこれが理解できませんでした。無症状の人に検診してがんを見つけても,死亡率は検診しない場合と変わらないないなら検診はしない方がよいと言いながら,見つけてしまったがんは治療したほうがよいというのは,単純な理屈では矛盾としか思えません。

 例えば,乳がん検診には過剰診断も含まれますが,ある年齢以上では,死亡率を減らす効果もあるので,検診は推奨されています。しかし,甲状腺がんのように死亡率を減らす効果がない検診とは,検診を行った100人と行わない対照群100人のその後の死亡率に違いがないということです。この場合,検診群では見つけたがんの治療を行うのに対して,対照群はがんがあるかどうか不明なので治療しないことが違います。治療の有無にかかわらず,死亡率に違いがないということは,治療の効果がないと私は単純に考えます。しかし,そうではないというのはなかなか理解しがたいです。

 理由の一つとして考えられるのは検診自体の悪影響です。検診群と対照群では,治療の有無以外に検診の有無に違いがあります。もし,検診が死亡率を増やす悪影響があり,治療に死亡率を減らす効果があり,しかもその影響が相殺しているのならば,検診群と対照群の死亡率は変わりません。しかし,検診してしまった以上見つけたがんは治療した方がよいことになります。

 ただ,ちょうど悪影響と治療効果が相殺するという偶然の可能性は極めて少ないと思います。また,悪影響のある検診ではなく,他の検査でたまたま見つけた無症状のがんも治療したほうが良いらしいので,その場合の理由は全くわかりません。ただ,治療に死亡率を下げる効果がないという上述の理屈自体は極めて単純な論理であり間違いはないでしょう。論理に間違いはないのですが,現実には単純な論理に抜け落ちている複雑な事情が多分あるのでしょう。私がNATROMさんに尋ねたかったのは,その複雑な事情でした。

 残念なことに,複雑すぎるようで,「本気で説明するのはけっこう難しいのです。」という返事でした。これを理解するには,医療の専門家と同じだけの知識とさらに経験が必要なのかもしれません。

 ということで,理解はあきらめ,専門家の意見を信用するというヒューリスティックな判断に現時点では落ち着いています。ヒューリスティックな判断ですから,納得したわけではありません。そもそもガイドラインは症状のある場合の治療の判断を示すもので,スクリーニングで見つけた無症状のがんに適用できないのではないのでないかという疑問は残っているのです。

 私の仕事の分野にも、ガイドラインや基準はありますが、完璧ではありません。完璧ではないからこそ改正が絶え間なく行われています。基準に不備があり改正すべきだという認識がその世界の大勢となっても、改正されていない時点で、基準を守らなければ、形式上は違反で責任を問われます。ガイドラインの場合はそこまで厳密ではありませんが、改正先取りを個人の判断で行うのはそれなりに覚悟が必要です。そういうことが医療分野でもあるのではないかと憶測したりしました。

 そんな「モヤモヤがあるので「見つけちゃったら治療しないわけにいかないという心理になるらしい。」という少々問題のある表現をしてしまいました。

 参考までに,NATROMさんにお尋ねしたツイートを張り付けておきます。