危険の感覚

 エレベーターやエスカレーターには変わったものがあります。おなじみのものでは駅構内に良くあるエレベーターで、フロアごとに出入り口が異なっています。このタイプは確か北海道のルスツのホテルにもあったように記憶しています(間違いかもしれません)。ダブルデッキという2階建てのエレベーターは日本にも何か所か設置されているようですが、まだ乗ったことはありません。エスカレーターでは、かつてつくば市クレオという商業施設にスパイラルエスカレーターという曲線形状のものが存在していました。クレオのすぐ近くに住んでいたこともあって、よく利用しました。現在は普通の直線エスカレーターになってしまいましたが、日本国内には他にも30か所以上存在しているそうです。
[ランドマークプラザにある曲線的なエスカレーター。]はまれぽcom.
http://hamarepo.com/story.php?story_id=1568

 かなり以前に乗ったことのあるエレベーターは、かなり変わっていました。平面的にデッキが分割されていて、行き先のフロアごとにデッキが途中から分かれてしまうのです。連結された行き先の違う特急電車が途中駅で切り離されるようなものです。そんな複雑な構造が可能なのが不思議ですが、スパイラルエスカレーターも実現する日本の技術力をもってすれば可能なのでしょう。

 ただ、そのエレベーターには注意が必要です。途中で分割される境界線上にまたがっていると、また裂き状態になって危険なのです。そして、私が乗ったデッキは上昇するにつれて段々狭くなっていきました。うっかりしていると自分のエリアからはみ出しそうになります。さすがに危ないのか、最近ではこんなエレベーターはめっきり見かけません。いやこんな悪夢は見なくなりましたが、昔はよくみたというのが真相です。他にも、行き先がコントロールできなくなるエレベーターや、存在しないはずの高層階へ行ってしまう悪夢もよく見ましたね。

 私にとって、エレベーターにはいわく言い難い恐怖が付着しています。それだけでなく、現実にもギロチンの恐怖が感じられるエレベーターも存在します。建設現場の仮設の人荷用リフトです。これは昔のエレベータのように、素通しの鳥かごのような形状をしています。従って、うっかり鳥かごから手を出そうものなら結果は言うまでもありません。もちろんそんな馬鹿をする奴はほとんどいませんが、馬鹿をするのも人間です。

 エレベーターではありませんが、この種の馬鹿をしてしまう事故は稀にあります。車のサンルーフから乗り出していた子供が、低いトンネルで頭を強打して死亡してしまう事故が有りました。子供のころ遠足でバスに乗る時には、窓から頭や手を出さないように必ず注意されました。それでも子供は手を出す誘惑に勝てないのですね。このように危険な状態を放置しているのは不思議といえば不思議です。窓は開かないようにしてしまえば安全なのですが、別の支障が生じてしまうのでしょう。

 日本のバスや電車は窓は開きますが、走行中のドアは開かないようになっています。しかし、海外では乗客が開けることが出来るものがあると何かで読んだ記憶があります。日本人の著者がそれを見て「子供が開けたら危ないではないか」とその国の人に注意したところ、「そんな馬鹿な子供はいない」と言われたそうです。いないはずはないと思いますが、その場合は自己責任で済ませるのでしょう。

 この手の危険は身の回りに多く存在しています。人間の身体能力を越えた動力を使うものは基本的に危険なのです。自動車がその代表ですが、建築物にも、動力を使う部位があります。エレベーター、エスカレーターの他、回転自動ドアがあります。かつて私はこれらに本能的な危険を感じていました。子供のころはエスカレーターに乗るのが怖かったし、上述の悪夢もエレベーターに対する恐怖が根源にあるからでしょう。回転ドアは手動式でも怖いところがあります。回転ドアは相当の重量物ですから、慣性力で簡単には回転が止まらないからです。下手するとギロチンです。

 ただ、この恐怖も慣れてくると次第に薄れてきてしまいます。車の免許取り立てのころは、ブレキが効かなくなる夢をよく見ましたが、最近は見ません。エレベーターの悪夢もほとんど見なくなったし、エスカレーターが怖いということは全くなくなってしまいました。回転ドアは経験する機会が少ないので、未だに何となく怖いのですけど。しかし、危ないという客観的事実に変わりはないのです。そして、稀ですが事故は発生し、国土交通省事故調査委員会を開催し、安全対策の法改正を行うのです。その結果、鳥かごのようなエレベーターは無くなりましたが、機械式駐車場は最近までそのような状態であったのです。基本的に人間を輸送するものではないのでそれで良しとしていたのかもしれませんが、人間が迷い込むという落とし穴を見落としていたわけです。

 見落としと言えば、見落としなのですが、本能的に危険を感じても不思議ではない構造でもあります。にもかかわらず、私がエレベーターの悪夢を見なくなったように、だれも感じなくなったのでしょうか。少し、違うような気もします。どちらかといえば、海外の電車のドアに近いのかもしれません。走行中の電車のドアを開けるような馬鹿な子供が日本には存在するならば、作動中の機械式駐車場に入り込む馬鹿な子供がいると考えるべきだったかもしれません。古くからなじみのある電車と違って機械式駐車場は比較的新しい設備であるので、馬鹿ではない子供でも入り込む可能性は十分あるわけです。電車には「馬鹿よけ」を施すのなら、機械式駐車場にはそれ以上の対策をしてしかるべきっだととも言えます。

 かように、安全対策に関してはフールプルーフが重要だと言われます。しかし、フールプルーフが完備されてくると、馬鹿じゃなくても危険に対しての本能的な警戒心が薄れてくるような気もします。その一方で、薬や放射線に過剰な警戒心を持つ人もいます。危険に対する感覚の信頼性はなかなか難しいところが有ります。感覚とは過去の類似の経験が元になっています。従って、類似の事柄には信頼性が有りますが、過去の経験が役に立たない新しい技術には無力です。その一方で、過去の経験が少ない新しい技術のように見えても、それは個人的な経験に過ぎず、人類全体の知恵としては十分な経験が積み上げられている場合も多いです。

 個人的な警戒心や感覚は慣れで錆びつかせないようにしながらも、人類全体の知恵(言いかえれば専門家の標準的見解)を信頼するのが良い対処法ではないでしょうか。その逆は極めて危ないと思います。