道徳の適用範囲

黒猫亭さんのツイート

knt(黒猫亭)@chronekotei 5:14 5月27日
人身事故で電車が停まったら、我が身の不都合よりも犠牲者の安否を気遣うような人ばっかりいる国だったらたしかに美しいけど、オレみたいな浅ましい凡夫にはちょっと住みにくい国だと思う。

 同感。世界には不幸な人々が大勢いるけど,一々気にしていたら,自分の生活が出来なくなるからね。地球の何処かで,今現在,餓えで命を落とかけている子供達の姿を思い浮かべたりしたら,飯が喉を通らない。だから,そんな想像はたまにしかせず,大抵は自分の家族や仕事のことを考える。それが人間というか,そうで無ければ生きて行くのが大変だからね。

 倫理や道徳も適用範囲があるはず。例えば殺人は不道徳だけど,時と場合によっては合法的に人殺しをしているね。戦争や死刑や正当防衛では殺人可だし。それに合法じゃ無いかもしれないけど,極限状況で人殺しが絶対に許されないのか,いろいろ想像してみると悩ましいケースが有る。悲劇ではよく取り扱われる題材だ。そもそも,許されないって誰が許さないの。道徳では「自分の良心」みたいなことを言うけど,本当は社会の「仲間」だよね。

 社会の「仲間」と共に生き残っていくための約束事が道徳だと思う。だから社会の「仲間」から阻害されると道徳は有効に働かないね。阻害されていない人間から見れば,犯罪者は理解しがたい自暴自棄の行動を取るけど,阻害される身になって考えれば少しは理解できる。もっとも阻害されたと勘違いしている場合もあって,現実は複雑だけど。

 一応,社会も仲間に戻れそうな見込みが有るときは受け入れてくれる。日本の刑罰も報復刑というよりも矯正刑だし。立派に更正すれば「仲間」に復帰。しかし,その見込みがないと見捨てられる。昔の島流しでは,まだ「仲間」への復帰の望みが有ったけど,現在の死刑じゃ,復帰は望めない。ちょっと厳しい。

 ややこしいのは「仲間」外れにされたもの同士が「仲間」になる場合が有ること。いわゆる「アウトロー」集団だけど,アウトローというのは,別の集団のルールから外れているというだけで,その集団にはその集団の掟が有る。だから,どちらが正当かなんてのは相対的なことに過ぎない。ただし,大抵のアウトロー集団は,他の大きな集団に寄生しているくせにその集団の約束事を守らないという身勝手なところがあるので嫌われているけど。

 寄生する大きな集団の約束が無い場合はアウトローにならないから,「国」という呼び方になるね。約束は集団内部しか規制出来ないから,国同士の約束事は不十分だ。そのため紛争が絶えないよね。特に宗教と呼ばれる約束事はその集団にしか通用しないのに,他の集団にも適用出来ると信じている場合が有って,紛争が激しくなる。

 宗教に似たものに,倫理や道徳があり,これも適用範囲の誤解が多い。宗教は地域や民族の約束事で,倫理や道徳はある状況に置ける約束事で,どちらもその範囲限りで適用されるもの。だけど,誤解して適用範囲を広げることがあって,そうすると不都合が生じてトラブル発生ってことは良く経験する。

 倫理や道徳が出来たときには,地球の裏側の飢えた子供のことなど考えていなかったわけだ。そう言う子供の事も考えなければならないのなら,別の倫理や道徳を作る必要があるのじゃないかと思う。今だって,家族間,親戚間,職場,自治会やら集団別に人付き合いのルールは違うしね。母親の葬式にも出ずに遊んでいたら白い目で見られるけど,それほど親しくない職場の人間の場合はそんなことは無いね。

 でも,逆方向に変わる恐れもある。道徳や倫理は宗教と似ていて,適用範囲を勝手に広げられる心配が常にあるんだ。そうなると非常に住みにくい世界になってしまう。多分,余計なお世話を焼かれて鬱陶しい世界じゃないかな。今でも十分鬱陶しいのにね。