怒り

 まだ学生運動の名残が残っている学生の頃の話。或日,学生集会に出ると,メインの進行とは別に,全共闘系の連中がやって来て,そこかしこで個別に議論を吹っかけていました。その一人が言うには「怒りが力を持つのだ」。理論や理屈がいくら正しくても運動は力を持たない。根源に怒りが必要なのだ。とエキセントリックに叫びます。なにか反論らしきものをしようとすると,問答無用で「ナンセンス」。言行一致というか,怒りを実践していました。全く理論も理屈も有ったもんじゃありませんでした。

 嫌な気分になりましたが,確かにその通りです。人間が行動を起こすには情動中枢が作動する必要があります。自己啓発セミナーなんかもそれを利用しています。別の言い方では洗脳とも呼びますけど。洗脳でなくても,全く感情のない行動は難しいと思います。

 社会人になって,仕事の重要性を理屈で分かっていても,残念ながらいまいち熱が入らないことがしばしば有りました。かと思うと,面白いと言う感情が起これば,重要性があろうがなかろうが熱中します。仕事以外でも,何らかの感情がわき上がれば激しく行動しました。あとで冷静になって考えると,何であんな馬鹿なことをしたのだろうと思うのですが。早い話が,酒に酔った勢いみたいなものです。

 このブログで書いていることも,殆どが怒りという感情に基づいています。ニセ科学は許せない。間違った政策は何とかならんのか。と怒っていて,そのため,罵倒になったり,揶揄になったりします。基本的に,何かに対する称賛の記事は殆ど有りません。なんともネガティブです。創造性に乏しいもので,ネガティブな方が筆が進みます。

 この感情は何かに似ていて,それは前のエントリーで批判的に書いた不公正に対する正義感です。被害者という存在は大抵怒っています。だから,力を持っているのだと思います。それに対して私は理解をしながらも批判的なのですが,それもまた,怒りに基づいているのです。被害者や弱者という存在はある意味で力を持っているのです。しかも,反論を許さないような力をです。全共闘の戦士が「ナンセンス」と問答無用に切って捨てるような力です。私は,仕事でこういう人々とお付き合いが多少有りましたので,「ズルイ」という感情を持っているのです。

 でも,向こうは向こうで「ズルイ」と思っています。これじゃどうしようも有りませんね。まあ,感情をなくすことは出来ませんので,仕方無いと思います。ただ,せめて発する言葉は「理屈じゃないんだ」とか「ナンセンス」とか言わないようにしたいと思います。世の中には,対人的な対応が非常に巧い人がいます。面と向かって話すと,説得力があるのです。ところが,後になって振り返ると別に大したことは言っていません。言論ではなく,身振り手振り,微妙な声色,タイミングなどなどの総合的スキルと,相手の感情を読む能力に優れているのだと思います。たまに声が大きいという迫力だけの人もいますが,そう言うこともバカに出来ません。

 ただ,そのような手法は,オリンピックの開催地を決めるような,別にどっちでも良いような場合に限った方が良いと思います。どっちでも良いというのは第三者にとってということで,当事者にとってはどっちでも良いことは有りませんけどね。しかし,選挙でも政策よりもプレゼンテーションで決まる面があり,これはどうかと思います。

 ネットの情報発信は,対面ではないのでプレゼンテーションの面がないかというとそうではなく,罵倒芸,揶揄芸,など感情に訴える要素が多分にあります。出来るだけそれらに頼らずコンテンツで勝負したいのですが,それだけだと読み物として面白くないし,「こっちだって怒ってんだ」ぐらいは書きます。