サイン,コサイン何になる ー処世術と教育


 この種のやり取りは,学校教育の議論では頻繁に目にします。その度に暗澹たる気分になります。

 まだ,受験生だった頃「出題者の意図を推測し,それに沿った解答をすることが重要だ」と何かで読んたような記憶があります。現実的な受験指南だとは思いますが,「現実的」の意味は,そもそも出題が不十分なため,出題者の意図が書かれていなくても,推測して書けばよい点が期待できるということです。つまり,現実には不十分であったり,間違った問題があふれており,それに対処する裏技指南です。これは,受験テクニックであって,教育ではないのは明白です。

 例えば,小学校の国語の先生が間違った漢字を教えていて,それを試験問題に出したとします。このような場合,正しい漢字を書くべきか,先生が教えた間違った漢字を書くべきでしょうか。試験テクニックとしては,間違いを欠くべきです。その方が点数をもらえるからです。ただし,これはこの先生にだけ通用するテクニックであって,教育とは無縁の如才ない大人の世渡り術です。

 不思議なことに,教育の世界では学問教育をせずに,世渡り術を教える傾向があるようです。しかも,それを歓迎する親や大人も結構います。学問なんぞは,実社会では何の役にも立たない,それよりも大人の処世術を教えた方がマシだと。「サイン,コサイン何になる」というのは,サイン,コサインを教えている当の先生や子供の親の気持ちなんだろうな。