「生きる意味」

■自分の意志で生まれたのではない

 「生きる意味は?」というよくある問に対して「意味は無い」というよく有る答えがありまして,私もそう思います。直感的に分かるような事ですが,もう少し頭を整理してみようとぐだぐだと考えました。

 この問は「あなたにとって○○とは何?」に似た臭いがします。あまりに漠然とした質問です。それに,固いことを言えば,言葉使いを誤っている可能性が有ります。そこで,ある程度,内容を限定して考えて行きます。

 まず,「意味」という言葉は多義ですが,ここでは言葉の表現する内容ではなく,「効果」や「目的」ということを示していると解釈するのが普通でしょう。生命の生物学的或いは医学的定義を期待して尋ねているのではないのは確かです。常識的に解釈すれば,生きることでどのような効果があるのか,或いは,どのような「目的」を達成しようとして生きるのかと尋ねていると思います。生きるという手段で得られる効果や達成される目的は何かということです。よって,これ以降は「目的」として扱います。

 ところが,「目的」という言葉は,実現しようとしてめざす事柄を指し,主体的,能動的に設定するものです。「目的」を達成する手段も能動的に選択可能なものです。ですから,うっかり転んだ人に「転んだ目的は?」と問うたり,奴隷に「奴隷になった目的は?」と問うのは言葉使いの誤りです。あえて答えるなら「目的はない」というしか有りません。

 生きるのも,奴隷になったのと同じで,自分の意志で生まれたのではありません。ただ生まれただけで,生物には生きようとする本能があるので,生きています。そこに目的のようなものは有りません。ゴキブリに「お前がゴキブリとして生きる目的は何だ?何故人間として生きないのか?」と問いただしても仕方ありません。

 ただ生きているだけですが,生きようとする本能によって,生きるための手段をあれこれ工夫することは有ります。例えば,働いてお金を稼ぐとか,健康に留意するとか,人間関係に配慮するとか色々あります。人間はこのような手段のあり方について,思索を巡らし,ノウハウ集を作ってきました。人生訓や倫理などと言われるものです。

 つまり,「生きる」という手段によって何らかの目的を達成しようとしているのではありませんので,「生きる目的」はありません。これにて一件落着。

 と,言い切ったものの,「いや,そう言うことを聞きたいのじゃなくて・・・」と言われそうな気がします。何を聞きたいのかも何となく分かります。

■苦しみを紛らわす生きる手段

 実は,「生きる意味は?」と問う本心は,生きる目的ではなく,生きる手段を尋ねているのだと思います。生きようとするのは本能ですから,意識的に努力する必要はないのですが,長い人生ではその意欲が減退するときも有ります。そのような際に,意欲を取り戻して生きられる方法(手段)は何かと問いたくなることもあるでしょう。

 また,生きたいというのは本能ですが,生きるための手段は本能的なものではなく,努力を要するものが多いのはご存じのとおりです。前述した「働く」,「健康に留意」,「人間関係」などは意識して努力しなければなりません。こういう事は面白くないし,出来ればやりたくないと思っている人が大多数です。中には幸せなことにこれらが面白いという人がいて,その種の人はおもしろ楽しく生きる事ができます。彼らは「生きる意味は?」なんて悩みません。悩んでいるのは,面白く感じられる手段を求めている人です。「面白い」というのはゲーム性があるというような狭義の意味だけでなく,自尊心を満足させてくれる他者の承認なども含みます。はてなスターをもらえるとつい嬉しくなるようなものです。

 そして,面白く行える事があれば,生きることに係わる根本的な矛盾から気を紛らすことが出来ます。根本的な矛盾とは頑張って生きても,意識を持つ個体はいずれ死ぬということです。この矛盾は死の恐怖や理不尽感をもたらしますが,解消出来る見込みは有りません。というのも,矛盾というのは個体の意識が感じているだけで,個体は遺伝子の乗り物に過ぎないという生物学的な見地からは矛盾でもなんでもありません。従って,解消するような進化は生じないと思われるからです。進化を待つのではなく意識が主体的に対応せざるを得ません。客観的には矛盾ではありませんが,意識の主観としては耐え難い矛盾であって,古より,幾多の宗教家が答えていますが,満足なものは有りません。私は,本質的に解決不能で,そうなっているのだから仕方ないとしか言えないと思います。対応は気を紛らすくらいです。

 また,死の恐怖以外にも意識にとって不快な問題は沢山あり,しかもすぐには解決できないものが殆どです。貧富の差,暴力問題,戦争などなど。解決出来るとしても遠い将来で,個体が生きているうちには無理なことばかりです。現代人から見れば,過去の人々は絶望せずによく生きていられたなと思うことばかりです。

 気が滅入って来ますが,意識の救いは物理的に問題を解決しなくても可能です。解決出来ていると自己暗示をかけたり,気を紛らすという方法が有ります。俗な言い方では気の持ちようといいます。そういう救いを与えようとしたのが宗教ではないかと思います。ということで,ここから先は宗教の救いについて考えて見ます。 
 
■宗教の果たす役割と弊害

 宗教は生きる意欲をもたらす手段(気張らし)を与えてくれると思うのですが,手段としてではなく生きる目的(意味)として示しているように思います。いずれ死んでしまう意識が苦難を乗り越え何故生きなければならないかを説明する場合に,有限な寿命を超えた永遠の魂のような存在があれば説得力が増します。それは事実ではないフィクションですが,事実の究明は宗教の役割ではなくて,意識の救いが役割なので大目に見ましょう。そもそも大昔は,事実も神話も区別できていませんでしたから,気にならなかったんでしょう。

 どうせ死んでしまうのに何故生きなければならないかという疑問は,どうせお腹が空くのに何故食べなければならないか,どうせ帰ってくる旅行に何故出かけるのかという疑問と似ています。答えは,食べたいから,旅行が楽しいからという他はありません。何か高尚な目的のために生きているわけではありません。本能的に生きたいからとしか言えません。それ以上の深遠なる目的は存在しないと私は考えます。

 にもかかわらず,高尚で深淵なる目的が有ると錯覚している方が生きやすいと感じるのが人間の意識です。もっと単純な五感にも錯覚がありますが,それにも機能があって錯覚した方が大抵の場合,都合がよいからです。しかも,錯覚であると知っていても錯覚は無くなりません。生きる意味を宗教が与えてくれるのも錯覚ですが,それが分かっても錯覚はなくなりません。「生きるのが本能だから生きるのだ」と言われるよりも崇高な「生きる意味」があると錯覚していた方が活き活きと生きていけるような感じは私にもあります。ただ生きているだけなんて動物と一緒ではないか,人間はもっと偉いのだと考えた方が気分がいいです。宗教幻想を生み出す脳の部位があるような気さえします。

 ということで,宗教の需要は無くならないと思いますが,五感の錯覚同様,弊害も有ります。しかも,現代では弊害の方が多いかもしれません。事実との齟齬も気になってきます。

■宗教についての補足

 前項で,宗教は永遠の魂の存在を認めているように書きましたが,そうではない宗教もあります。例えば浄土真宗では輪廻転生や魂の永続性は否定しているそうです。以前に,知り合いのご住職さんが法話で話していました。むしろ,自我の永続性を求めるのは,無我を説く仏教の教えに反するようなことを言っていたように記憶しています。

 輪廻転生はないと言いながら,成仏して仏様になるというのはどうもスッキリしませんが,成仏は自力では無理なようですから,あまり考えてもしかたないのでしょう。それよりも「現世の今を生きよ」という教えのようでした。生きる目的として成仏や極楽浄土というフィクションのニンジンがぶら下がっているような感じです。多分,親鸞の時代には,ニンジンがなければ今を生きるのも大変だったのでしょう。でも現代ではこのニンジンはあまり魅力的では有りません。仏様になっても窮屈そうですしね。だから,ご住職も成仏の話はあまりしませんでした。強調していたのは「現世の今をいきよ」でした。