■天下り的説明
毎度おなじみ、日本語助詞の「は」と「が」の違いについての記事です。
www.kokugakuin.ac.jp
日本語学の答えとしては、「従属節中では一般に『は』は使えないから」というものです。「私が作った」という部分は、一人前の文ではなくて、「(これは)私が作った俳句です」という、より大きい文の中の小さな文で、こういうのを従属節といいます(この例の場合は、従属節の中でも連体修飾節と呼ばれるもので「俳句」に係っています)。従属節の中では一般に「は」は使えなくて、その中の主語は「が」で示されます。
この説明は、「ルールだから使えない」という天下り的説明で、間違いではないとしても納得感がありませんね。なぜそういうルールなのかを知りたいわけですから。納得できる説明のためには、先ずは、よく話題になる「は」と「が」の違いから始める必要があると思います。面白いのは、理屈は分からなくても、日本語が母国語の人はちゃんと使い分けることです。「この俳句は誰が作ったの?」と尋ねられたら「私が俳句を作った」と答え「私は俳句を作った」とは答えません。一方、「あなたは何をしたのか?」と尋ねられたら「私は俳句を作った」と答えますが、「私が俳句を作った」とは応えません。また、「誰は俳句を作ったのか?」とは言いませんし、「あなたが何をしたのか?」も少し変です。
■叙述構文
何故、このようになるのでしょうか。これを説明するのが、日本語には、題説構文と叙述構文があり、日本語の文には「陳述」が必須と言う説です。日本語文法にはいろんな説があるようで、これが決定版というわけではありませんが、「私は作った俳句です」が、なぜ日本語としておかしいのかをうまく説明していると思います。説明にあたっては、小池清治氏の「日本語はどんな言語か」によりました。引用部分はそこからのものです。
まず、叙述構文です。
叙述構文は、話し手・書き手が外界の事象や事柄を客観的に叙述するために採用する構文で、叙部と述部からなる。
叙部は、補足部(いわゆる「主語」や「目的語」など)と副詞や用言の連用形で構成される修飾部からなり、述部は用言と助動詞、助詞などからなる。叙述構文では体言を述部とするものは存在しない。情報的観点から述べると、叙述構文は基本的には全体が「新情報」となる。
(中略)
叙述構文は、原則的に事柄を言語主体(話し手・書き手)の主観的判断ではなく、客観的事象として叙述しようとする時に採用する文型である。「叙部」(補足部・修飾部)と「述部」とからなり、述部の核となる用言を包むような「玉葱型構造」と称すべき構造をもっている。英語などと違い、述部に含まれる主語ではなく、述部の用言が核となるところが日本語の大きな特徴だといえる。
(中略)
叙述構文は、・・・主観抜きの情報の核になるものは、いつ・どこで・誰が・何を・どうしたという、いわゆる5W1Hに関する情報で、日本語では、用言が「どうした」に関する情報を提供し、文末に置かれる。また「いつ」以下の情報は、用言の上に置かれ、体言または体言相当の語句に格助詞がついたひとまとまりの表現によって提供される。このひとまとまりの表現を、本書では「補足部」という。
例えば、叙述構文「犬が庭で吠える。」の述部は「吠える」で、吠える主体を示す「犬が」や吠える場所を示す「庭で」などが付属します。英語の主語に当たる「犬が」は無くても構いません。「どうした」にあたる「吠える」が主たる情報として叙述され、それ以外は補足情報に過ぎません。
■題説構文
次に、題説構文です。
題説構文は、話し手・書き手がなんらかの主観的判断を示すために採用する構文で、題目部と解説部からなる。
題目部は話題の中心となる題目を示す部分で、主としてハで提示される。話し手・聞き手にとって、既に知っている事、既知の事実としての扱いを受ける。「地球は丸い。」という文を例にして述べると、「地球」という言葉の意味するもの、指し示すものが、たとえ、聞き手にはわからないとしても、話し手は「聞き手がわかっている」ものとして、この表現をしているのだということを意味する。情報的観点から述べると、題目部では、いわゆる「旧情報」が示されることになる。
解説部は題目部についての話し手の解説、説明、意見、意向を示す部分である。解説部は事柄を客観的に構成し叙述する部分と話し手の主観的判断が示される部分とからなる。
解説部で述べられる事柄は、時間的制限を越えた凡時的一般的事柄としての解説や説明であったり、話し手の個人的意見、一時的意向であったりする。情報的観点から述べると、解説部で述べられる事柄は、聞き手にとって、まだ知らないこと、未知のこと、いわゆる「新情報」として扱われる。
「地球は丸い。」は、凡時的一般的事柄を述べていますが、「僕は、ウナギだ。」は、僕が今食べたいのはウナギであるという自分の一時的意向を示しています。解説部は客観的な場合も主観的な場合もありますが、聞き手の知らない「新情報」として示されています。一方、題目部の、「地球」や「僕」は、聞き手が知っている「既知の情報」です。
以上より、「この俳句は誰が作ったの?」と尋ねられたら「私は俳句を作った」とは答えない理由は、ほぼ明らかです。質問者が「誰」と尋ねているのに、題目部の既知の情報として「私は」と答えているからです。
また、「あなたは何をしたのか?」と尋ねられて「私が俳句を作った」と答えるのは、「私」が答えのようにも受け取れるからです。
「誰は俳句を作ったのか?」がおかしな質問なのは、構文的には、名前が「誰」という者が俳句を作ったか否かを尋ねている形なのに、「誰」という言葉の意味からは、俳句の作者を尋ねているようにも受け取れ、結局、意味不明だからです。共通しているのは、既知の情報と未知の情報が混乱していることです。日本人は無意識にそれを整理して話しているんですね。
■陳述
さらに、文に必須なのは「陳述」であって、英語のように「主語」と「述語」ではないという特徴が日本語にはあります。この特徴によって本題の「私は作った俳句です」がおかしい理由を直接説明できます。次の「日本語はどんな言語か」の引用部分で、日本語の文の要件は「陳述」であると説明してされています。
なお、陳述に対して、素材となる言語表現を「叙述」という。すなわちaの語句は、文の素材であり、叙述である。これだけでは文になれない。語句、叙述に陳述が加わってはじめて文となる。あらためて、文の定義をしておこう。
文とは、表現の素材となる語句、叙述に陳述が加えられた、ひとまとまりの言語表現である。
引用部分の「aの語句」とは、「私の部屋の窓際の机の上にある一冊の本」という語句です。これだけでは文ではありませんが、「。」や「?」などの陳述が加えられて文になるという説明です。陳述は話言葉では、イントネーション等で示されます。私が初めて「陳述」の説明を読んだ時はなかなか理解できませんでした。文型として明確に示されておらず、「陳述」つまり「申し立て」とは随分あいまいな印象がありました。しかし、文字が発明される前から言葉は話されていたわけで、イントネーションや身振り手振りも言語の重要な要素なのですね。
「日本語はどんな言語か」では、「男が本を買った」は叙述であるが陳述を備えていないので文ではないと述べられています。「男が本を買った店」のように連体修飾節にもなりえるからです。話者が「男が本を買った」という叙述をどのような意向で述べたのかを示して初めて文になります。書き言葉では句点「。」で示されます。話言葉ではイントネーションなどで表現されます。これを少々くどくいうと、「私(話し手)は、「男が本を買った」と陳述した。」ということになります。この陳述はもはや連体修飾節にはなりえません。陳述は話者の意向であり、「店」の性質や状態ではないので、それを修飾することはできないからです。逆にいうと、陳述のない「叙述」なら修飾可能です。一方、題説構文は、題目部で示された話題について、解説部で話し手の意向を陳述するものですので、連体修飾節にはなりえないわけです。
つまり、一つの「陳述」をする文の中に、他の「陳述」が入り込むことはできないのでしょう。これは、日本語だけでなく言語の普遍的規則のような気もします。ところで、陳述があれば、連体修飾節の中で「が」が使えない場合もあります。例えば、「桜が春の花だ」を考えてみれば分かります。これは、名詞文と呼ばれ実は「桜は春の花だ」という題説構文の強調形であり叙述構文ではありません。
■おまけー係り受け
日本語は係り受けの関係の解釈が一定ではなく多義になることがあります。その観点で「私が作った俳句です。」の解釈の可能性を考えてみます。
解釈1 (私が作った)俳句です。
解釈2 私が(作った俳句)です。
解釈2は、意味的におかしいですね。ところが、「私が出場した選手です。」を考えて見ると、
解釈3 (私が出場した)選手です。
解釈4 私が(出場した選手)です。
解釈3の、「私が出場した」は、前述した「私は出場した」という題説構文の強調形です。意味がおかしいというよりも、その意味自体を考えることが困難です。どうしても解釈4として読んでしまいます。
次に「私は作った俳句です。」を調べます。
解釈5 (私は作った)俳句です。
解釈6 私は(作った俳句)です。
解釈5は解釈3と同じで、意味を想起できません。
解釈6は、意味的におかしいですが、構文的には間違っていません。
まとめると、次のようになります。
解釈1と解釈4は正しい。
解釈3と解釈5がおかしいのは、文(陳述)は文(陳述)の要素にならないため。
解釈2と解釈6は構文的にあり得るが意味的におかしい。
「従属節中では一般に『は』は使えないから」と一言で片づけられませんね。