禁書のパターナリズム

 香川県のゲーム規制条例がとうとう可決されました。子供をゲームの害から守ってあげようというパターナリズムです。ただし害があるかどうかは慈悲深い父親があると思えばあるという恐ろしい考え方です。

 子供に対する規制はパターナリズムであることはわかりやすいですが、大人も含めた禁書もパターナリズムだと私は思います。ケン・リュウの「訴訟師と猿の王」に、それがわかるくだりがあります。禁書を読んだという嫌疑を受けた田皓里(テイエン・ハオリ)と審問する易(イー)長官の次のやり取りです。

「このあつかましい愚か者め!今回はいつものごまかしが効くと思うな。きさまが謀反人の李小井(リ・シャオジン)に何か便宜を図り、禁じられた、反逆的な、けしからぬ文書を読んだという揺るがぬ証拠があるのだ」

「確かに最近本は読みましたが、その本には反逆的なことなど一つも書かれてはいませんでした」

「なんだと」

「あれは羊を集め、真珠を連ねることに関する本でした。それと何やら池を埋め、火を熾すことが書かれていたような」

机の後ろにいるもう1人の男が目を細くしたが、田(テイエン)は何も隠すことなどないかのように続けた。

「きわめて専門的で、退屈な本でした」

「嘘をつけ!」易(イー)長官の首筋の血管は破裂しそうだった。

「いと輝かしく明敏なる長官どの、どうしてわたしが嘘をついているとお分かりなのです?その禁制の書とやらの内容を教えていただければ、わたしにもそれを読んだかどうか確かめられるのですが」

「きさま……きさま……」長官は魚のように口をぱくぱくさせた。

 むろん易長官は本の内容を知らされていないだろう…禁書とはそういうものだ…が、田はまた、血滴子の男(皇帝のスパイ)も何も言えないはずだという予想に賭けていた。本の中身について嘘をついていると、田を告発すれば、告発者もその本を読んでいたと認めることになる。血滴子の成員は一人として、疑り深い満州族の皇帝に対しそのような罪を認めるはずがなかった。

  この後、田の抗弁は暗殺組織の血滴子には通じず、拷問の上、処刑されてしまいますが、それはともかく、この部分は禁書がパターナリズムによることをよく表しています。禁書はその内容を知ったものに害悪をもたらす故に、知ることを禁止されます。ところが、読まない限り害悪をもたらすかどうか知ることができません。唯一、家父長たる清の皇帝のみが知っており、読者は皇帝を信頼するしかありません。(もちろん「信頼」は上辺で実態は「強制」であることはいうまでもありません。)

 一方、麻薬などの禁止薬物は、実際に服用せずとも、科学的な検証によって有害性を推測できます。科学的な検証という言説を理解出来れば、自ら判断可能です。しかし禁書の場合は言説自体が害をもたらすと言っているので検証が出来ません。

 こどもの有害図書パターナリズムです。大人が判断して、子どもに読ませないようにしますが、子どもにはその理由がわかりません。大人のみが知っています。(もちろん、それも上辺で、実際には有害性は科学的に検証されておらず、経験的、あるいは推測で有害と言っているだけなのは、清の時代と大差ありません。例えば、暴力的ゲームと犯罪の関係については有るという調査もないという調査もさらには犯罪を減らすという調査もあるという状況です。)

 次に、大人も含めて有害だとされる発禁図書はどうでしょうか。清の時代ならぬ現代では出版は禁止されるだけですから、入手が困難になっても読むことは可能です。しかし有害性の証明が出来ないことは清の時代と変わりません。なぜなら読んだ人間は禁書の影響を受けまともな判断力を失ってしまうかもしれないからです。

 というのも上辺で、実際には禁書にそんな影響力があると本気で信じている人はいないでしょう。せいぜい、読めば不快になるかもしれないという程度です。例えば出版禁止されるものに「わいせつ図書」がありますが、これは一部の人にとって不快と言うだけです。刑法175条に出てくる「わいせつ」の意味は判例によって「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反する」こととなっています。つまり、正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反して不快と言うだけなのです。わいせつ文書を読んだ者が性犯罪を犯すとは流石にいえないと裁判官も分かっています。だから理由にもならない理由で禁止するしかないのです。

 小説や映画の悪役の行為も不快に感じる人もいますが、その結果犯罪を犯すわけでは有りません。納豆が嫌いという人も大勢いますが、食べたら食中毒を起こすわけでは有りません。ところが「わいせつ」だけはなぜか一部の人が不快というだけで出版禁止になります。性的なことだけ違法な理由は不明です。

 可能性としては、小説の影響を受け犯罪を犯したり、納豆アレルギーという特異体質の人もいるかもしれませんが、特異体質の人が避ければよく、販売禁止はお門違いです。酒乱で犯罪を犯しそうな人が禁酒すべきで、酒の販売を禁止されては善良な酒好きの迷惑です。

 世の中には騒音・振動、侮辱、名誉棄損など不快なことは無数にあるのですが、取り締まられるのは相手に否応なしに影響を及ぼす場合だけです。防音設備のあるカラオケボックスで大音量で歌っても騒音規制で取り締まられることはありません。納豆が嫌いな人に強制的に食わせるのは強要罪ですが、不快な食品である納豆を販売した科で罰せられることはありません。買って食べなければいいだけなので当然ですが、なぜか「わいせつ」だけは、強制的に見せたり読ませたりするわけでもないのに、罰せられます。この理由も不明です。

 未成年に対する有害図書は、根拠はないものの一応、好きで見た子供に悪影響があるという屁理屈がありますが、「わいせつ」にはそれすらありません。好きで見た人への悪影響もなく、嫌いで見ない人に見せるわけでもないのに、仮に見たら不快だろうというだけで違法になります。

 何故、発禁図書はこのような訳のわからないことになっているのでしょうか。私が思うに発禁図書とはパターナリズムであるという認識が薄いからではないかと思います。例えば、「親には従え」というような教えは、「封建的」と批判され廃れてしまいました。ところが、発禁図書には同じ思想があるにも関わらず、レッテル貼りがされにくいため、生き残ったのではないでしょうか。