愛国心とCMソングにまつわる錯覚

■ 二重の錯覚

 「自分の国や国旗を好きで何が悪い」とたまに耳にしますが、全然悪くありません。ただ、このような言い方をする場合の状況や文脈をを考えると、二つの錯覚があると思います。本来、好き嫌いの対象でないものを好き嫌いと感じる錯覚と、好きなのが自然な感情で、嫌いなのは病的な感情であるという錯覚です。

■ ラーメン嫌いは異常か

 嗜好は個人の好みなので、ラーメンが嫌いでも批判されることはありませんし、納豆が好きでも、味覚が異常だと変な目で見られることはありません。同じような意味合いで、個人の嗜好を述べただけなのに、「自分の国が好きだなんて異常だ」と白い目で見られたのなら、「自分の国や国旗を好きで何が悪い」と反論するのは当然です。しかし、「自分の国が好きだなんて異常だ」という意見は聞いたことがありません。

 嗜好の問題なら、「自分の国や国旗を嫌いで何が悪い」も同等のはずですが、「好きで何が悪い」とあえていうような人も、同等と考えているのでしょうか。例えば「子供が嫌いで何が悪い」というと多少変わり者と見られてしまいます。同様に、自分の国が好きなのが普通で正常であり、嫌いなのは少しおかしいという言外の気分を感じてしまいます。

 つまり、人は他者よりも自分自身が好きで大事に思うのが自然なように、他国より自国を好きなのが自然だといいたいのであって、個人の嗜好を述べているとは思えないのです。しかし、自分が好きなのが普通だとしても、自国が好きなのが普通とは言えません。なぜなら、他国に帰化したり、難民となって他国に逃れたりするのは異常ではありません。帰化や難民は単に好き嫌いという感情の問題ではなく、複雑な事情があり、次に述べる国家を嗜好の問題と考えることの錯覚と関わってきます。

 それはともかく、仮に嗜好の問題とするならば、好きも嫌いも同等でなければならず、好きなのが自然と感じるのは錯覚です。

■ 国家フェチ

 「愛国心」という言葉には「心」がついているので、心の問題と思われがちです。「家族愛」や「故郷愛」などと同じような感情のように扱われます。しかし、自然な感情の対象として国は大きすぎるのではないでしょうか。家族や百人程度の集団ならば、殆ど顔見知りですので、自然に愛着が湧いてきますが、国となるとその全体像は経験的には実感できません。「望郷の念」も故郷の風景や接した人々という個人的経験に根差した情感であって、地方自治体の組織を愛しているわけではないでしょう。

 組織や体制は、通常は、愛情の対象にはなりません。本来、支持や批判という理性的な判断の対象です。しかしながら、愛情の対象と錯覚させることは昔から行われてきました。国家規模になると統一、維持も難しくなりますが、大抵の王や皇帝は「神性」を主張し、そのカリスマ性によって、統一と維持を図るのが普通です。現代でも立件君主制の国家では、王室や皇室の人気は同じような効果を持っているのではないでしょうか。

 本来、複雑で巨大な国家組織も、擬人化象徴化すれば愛情の対象になります。国王などのいない共和国では、建国の祖や国旗、国歌などの象徴が愛情の対象になって、国家の維持に利用されています。象徴によって脳内に形成される幻想が愛されるのは、国家に限らず見られます。ハイヒールに情欲を感じたり、技術者が機械に愛情を感じたり、マニアはいろんなものに愛情を注ぎます。複雑な実態とそれを単純化した象徴が違うことは、大抵のマニアは自覚していますが、次に述べるように、国家の象徴を愛する人は自覚していない可能性があります。

■ 愛国ソングとCMソング

 理性で判断してもらう七面倒臭い説明よりも、幻想の象徴を愛してもらう方が手っ取り早いのは、経験的に知られていました。人間は理屈よりも気分で動きます。コマーシャルメッセージでは、商品の諸元や性能を説明するようなことは殆ど行われず、タレントやCMソングで、消費者の脳内に象徴を形成し、情感に訴えるのが常道です。

 このような事情は、今では十分に消費者にも知られていて、本来の意図とは無関係にCMを娯楽として楽しむことも普通です。CMソングが話題になり、独立して販売されたりします。エロチックなフェチももはや、生殖活動とは無縁の文化として成立しています。軍歌も本来は、戦意高揚が目的だったはずですが、独特の哀感を楽しむだけのものだったりします。本来のメッセージソングとしては右翼の街宣車で利用されているぐらいです。

 古い演歌には、男にとって都合の良い馬鹿な女の哀感をうたったものがありますが、これをメッセージソングと考えれば、フェミニストから猛攻撃を受けるはずですが、そういう事態にはあまりなりません。あくまで、空想をたのしむものとみなされているからだと思います。

 しかし、それらと違って、国家の場合は、一人の人間には一つの経験しかできないのが普通なので、錯覚に気づいていない可能性が高くなります。

■ メッセージでもアートでもないビジネス

 メッセージソングから本来の意図を消し去り、アートや娯楽として楽しめるのなら、逆方向もあり得ます。というか、メッセージソングとは、アートをメッセージを伝える手段として利用しているのですから、こちらが順方向です。さらに、メッセージでもアートでもないビジネスという場合もあります。武器商人のような立場です。表面上は「メッセージ」や「アート」の体裁をしていますが、ビジネスの手段に過ぎないという場合です。

 話題のRADWINPPSは、謝罪してすぐに、コンサートで歌いました。首尾一貫しないみともない態度で、アートでもメッセージでもないし、ビジネスとしてもファンは失望すると最初は思いました。しかし、RADWINPPSとは「イカした、意気地なし」というような意味の造語らしく、そういう演出のビジネスなのかと腑に落ちたような落ちないような気分になっています。