説明できないことば

翻訳できない世界のことば
 http://www.xn--m9j6a5a5an9b74cda.com/entry/%E7%BF%BB%E8%A8%B3%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0
この英語版表紙のイラストが表しているのは、イヌイット語の『IKTSUARPOK(イクトゥアルポク)』という言葉−−『だれか来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること』。

 リンク先に例示してあることばは,ほとんどが対応する単語がないことばというだけで,文章にすれば翻訳できているんじゃないでしょうかね。要するに,使用頻度の高い概念は一々説明すると面倒なので,単語が作られるわけですから,その言語文化にとって使用頻度の少ない概念は単語が作られないということかと思います。一方,本当に翻訳できない言葉もあって,そういう言葉は,その言語でも説明できないような基本的な概念です。例えば「うまみ」はそういう味を意識しない食文化圏の人に言葉で説明することはできません。生まれつき盲目の人に「赤」を説明できないのと同じで,盲人の「赤」に対応するような,ある言語文化には存在しない概念は翻訳しようがありません。

 いや,盲人が色を知覚することはできないけど,「うまみ」は知覚することができるので,「昆布の味」という例示で翻訳できるではないかという意見もあるかと思いますが,そう簡単ではありません。何故かと言うと,知覚には見れども見えずという現象があるからです。「うまみ」を意識したことがない人は,「昆布の味は甘い」としか感じないかもしれません。従って,例示は多数必要で,それらに共通するものを見つけださなければなりません。甘いダシでも辛いめんつゆでも共通に含まれるグルタミン酸の味を感じて初めて「うまみ」が分かったことになります。

 この多数の例示から,意味を理解するというのは子供が言葉を覚える過程と同じように思います。子供が「赤」という言葉を覚えるにはリンゴやイチゴ,血液などの色を見なければなりません。この経験は文化や人によって微妙に違いますので,実は「赤」と感じる色も微妙に違ってきます。そこを厳密にしたいのなら,光の波長の範囲で定義すればよいですが,それでは「赤」がどんなものか実感することはできません。実感するには多数の例示がどうしても必要です。

 おなじような事情が,学問の新しい概念を理解する場合にも遭遇します。例えば,「エントロピー」は言葉で明確に説明できますが,初学者が実感するのは難しく,なんだかよくわからないと感じます。私はいまだにそういう状態ですが,これば,多分の例示の体験が少ないからだと思います。「読書百遍意自ずから通ず」と言いますが,同じ本を百篇読んでも無理だと思います。異なる本を乱読しなければ意が通じることは難しそうです。結城浩さんの「数学ガール」に「例示は理解の試金石」という言葉がでてきますが,おそらく同じようなことを述べているのではないでしょうか。

 私には,言葉の世界はスカスカの隙間だらけの世界だけれども,その隙間を実感によって埋めているという感覚があります。隙間は言葉ではなかなか埋められないのです。幾らかは埋められますが,そのことによって実感で埋めていた部分が失われるという厄介なこともあります。下記引用はまさにそういう現象についての実験です。

あてにならない記憶──『脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議』
http://huyukiitoichi.hatenadiary.jp/entry/2017/01/03/131733
個人的にショックだったのは、何かを言葉にするのがむずかしい場合、それを言語化すると記憶が損なわれるという実験結果である。真っ当に考えれば反復することで記憶に残りそうなもんだが、少なくとも強盗の顔の描写を言葉で書き留めた人は、書き留めなかった人より並べた顔写真から正しい人物を見分ける確率が著しく低くなるのだ(書き留めた被験者は27%、書き留めなかった被験者は61%)。

 何かを得ることは,何かを失うことかもしれません。