豊洲移転を否定するためにケチをつけられる「ハコモノ」の悲哀

 行政分野では「ハコモノ」という建築関係者が嫌う言葉がある。嫌うのは悪い意味で使われるからである。無駄な入れ物というような意味合いで使われる。歴史的建造物の類はそれ自体に文化的、芸術的価値があるが、一般の建物は、用途があり建築は用途を果たすための手段に過ぎない。建築の中で行われる行為が重要なのであって、場合によっては「ハコモノ」はなくてもよいこともある。建築は、和菓子を入れるパッケージ「ハコモノ」に過ぎず、大事なのは中味の和菓子である、というわけだ。ところが最近,「ハコモノ」が中味の和菓子以上に脚光を浴びている。ただし相変わらず悪い意味でである。

 通常、和菓子を作る人とハコを作る人は別で、和菓子を作る人からハコを作る人は注文をうける。いうまでもなく、、和菓子が必要となって初めてハコが必要になる。したがって、まずは和菓子が必要か否かの議論が行われ、必要と決まって、次にハコをどうするか考える。

 数年前に、和菓子を作ると一旦決まったが、納得できない人が決定を覆そうと頑張っている。もっともな理由があれば、一旦決まったことでも見直すべきだ。しかし、ハコの出来が悪いというのは理由にはならない。それは、ハコを作りなおす理由にはなるが、和菓子が不要という理由ではないからだ。それにしても、ハコの出来が悪いなら、それはそれで問題で改善しなければならない。ハコのせいで和菓子が不味くなることもある。

 ところが、和菓子を止めさせるために、ハコのあら捜しをする人が現れた。そのハコは強度が足りず和菓子をいれると壊れるというのである。和菓子を入れれば壊れるけれども、洋菓子なら耐えられるという。だから、ハコは洋菓子用に転用すればよいとまで言っている。この人はハコの専門家なので、ハコの強度が足りないというのだが、不思議なことに必要なハコの強度は和菓子も洋菓子も同じなのである。一方、マッチするハコのデザインは全然違う。どうにも筋が通らない。

 このハコの専門家に限らず、和菓子の必要性に立ち返った議論をせずに、ハコの話ばかりしている人が多い。ハコに欠陥があれば和菓子が不要になると勘違いしているようだ。そして、和菓子のハコは洋菓子でも中華まんじゅうのハコにでも転用すればよいという。私は筋の通らないハコの欠陥指摘は怪しいと思う。しかし、仮に箱に欠陥があったとしても、和菓子用に作ったハコなのだから、和菓子用として修理したほうが、洋菓子用に作る変えるより圧倒的に簡単なのである。

 ハコの欠陥をあげつらっても和菓子の必要性が否定されない限り、何も解決しない。古い和菓子がまだ食べられればよいのだけど。