良い哲学、悪い哲学

大森荘蔵の時間論のごく一部  田崎晴明
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/modphys/11/Ohmori.pdf

最後に、大森氏による「点の運動は不可能である」という議論を引用しておこう。「わからなさ」がよく分かると思う。 

 そこで始めに挙げた問題の命題1で、点 X が位置 A にある、という時に、位置 A にあるというのは点位置 A と同一点であるということになる。点 X が位置A と同一の点でないならば位置 A にあることはできないからである。但しこの場合、位置 A と点(位置)A とは同一の点を指示するものとする。すると同様に、点 X が動いて位置 B にくるとは点 X が点 B と同一点であることになる。そして点 X が動く間じゅう別な点になるなどのことはないのだから、点 X は A から Bに動く間じゅう同一の点であり続ける。すると結局、この同一の点 X が始めは点A と同一で、終わりには点 B と同一だということになる。これは A と B とは呼称によって異なる二点であることに明白に矛盾する。つまり、点の運動というのは表面的には何の変哲もない無邪気なことに見えるが、一歩立ち入って精しくその意味を検討してみると、実は矛盾を蔵しているのである。・・・・(大森荘蔵「時間と存在」p. 81)

 なんじゃこりゃという「わからなさ」ですが、 例えば、「A氏はA邸に住んでいたが、B氏からB邸を購入して、引っ越しした。」を大森荘蔵的に解釈すると、次のようになるのではないでしょうか。

 A氏がA邸にいるというのは、A氏とA邸は同一の場所を指示するものとする。すると、A氏がA邸から引っ越してB邸に来るとはA氏がB氏と同一であることになる。そして、A氏が動く間じゅう別な人になることはないのだから、A氏は移動中もA氏である。すると結局、A氏はA氏でありながら、終わりにはB氏と同一だということになる。これは明白な矛盾であり、「引っ越し運動の逆理」と呼ぶ。

 いうまでもなく、「A氏」と「A邸」を混同した(元の議論では、「位置」と「点」を混同した」だけですが、この種の間違いが分かり安い戯言は笑い話のネタになっています。このハシ(橋)は渡れないが、中央はこのハシ(端)ではないので渡れる。渡れず、かつ渡れるのだから矛盾である。これを「一休さんの逆理」と呼ぶ、なんてのがその一例です。他にも、「答えを黒板に書きなさい」と言われた生徒が「答え」と書いた、という小学生レベルのおふざけがあり、さまざまです。基本的に同じことでも、もう少し分かりにくくなると哲学の対象になります。笑い話やおふざけと本質は同じですが、「シニフィアン」とか「シニフィエ」という用語を使うと、ぐっと哲学っぽくなります。

 哲学では、そのような微妙な意味を取り扱うため、厳密に意味を定義した用語を使い、厳密な論証を行います。それによって、言葉使いの混乱による矛盾を解消してくれます。「神」、「人間」、「善悪」などは哲学のテーマになりますが、これらの言葉は、多義的であいまいなので、混乱や矛盾が多いからでしょう。この役目を果たしてくれる哲学は大変有意義です。その一方で、大森荘蔵氏のような哲学者もいるんですね。