障害者への気遣いの問題

「感動か笑いか、だけではしんどい」24時間テレビとバリバラに出演 義足の女優が語るリアル
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 私は傷害犯でした。多感な中学生の頃、同級生をぶん殴って怪我させたのです。相手は足に障害のある生徒でした。普段はそいつとは仲が良い方で、よく話していました。ただ、少々皮肉屋で、嫌みを時々言う奴でした。事件の時は、とりわけ気に障ることを言われたと思いますが、内容はすっかり忘れているので、つまらないことだったんでしょう。つまらんことで頭に血が上った私は、たまたま手に持っていた籠でそいつの頭を殴って、その場を立ち去ろうと背を向けて数歩歩きました。すると、なんだが騒がしくなってきて、後ろを振り向くと、頭を抑えた手の間から激しく出血しているそいつがいました。周囲に数人、生徒が集まって心配そうに見ています。

 頭に上った血がスーッと引いていき、えらいことをしてしまったと思いましたが、そのあとどうしたかは覚えていません。記憶は家で親に顛末を打ち明ける場面に飛びます。当然、気は重く、こっぴどく怒られるかと思いましたが、親は少し驚いただけで、怒っている様子はありません。それどころか、「お前も喧嘩すっとね」というようなことを笑って言いました。私は、どちらかといえば大人しいタイプだったので、喧嘩するぐらいの元気が欲しいと親は思っていたようです。それはともかく、親と一緒に相手の家に謝罪に行きました。相手のお母さんは優しい感じの人で、「うちの息子も気に障ることを言ったとじゃ・・・」と、むしろ、私を気遣ってくれるような態度でした。

 まあ、それも頭の傷が思ったほどひどくなかったからだと思います。出血量がひどくて驚いたのですが、それは傷が額だったからです。プロレスラーの大流血も額ですね。もし、後遺症が残るような怪我だったらと、思い出しても冷や汗が出ます。結果がそれほどでなければ大して問題にならない時代だったので助かりました。当時は喧嘩は珍しくなく、大人も一々対応しなかったのだと思います。

 殴った時の自分の気持ちを振り返ってみると、相手が障害者という意識はありませんでしたが、自分より体力的に劣るという気持ちは有ったと思います。もし、相手が筋骨隆々の番長みたいな奴だったら、反撃を恐れて殴れなかったはずです。感情が高ぶった結果の行動のようで、どこか計算があります。もし、もう少し計算できる頭があったなら、相手が障害者ということを意識して、殴らなかったかもしれません。つまり、打算的な計算で私は暴力をふるった面がありますが、もう少し打算的なら、事件を起こさなかったかもしれないのです。

 「弱い相手に暴力をふるってはいけない」というのは倫理ですが、「倫理にもとる行為は罰せられるのしない方が得」は打算です。内面的には全く違うように見えますが、表面に現れた行為は同じです。果たして、内面が違うといえるのか怪しくなります。更に、私は相手を障害者とは意識していませんでした。健常者の同級生に対するのと気分的に全く差がなかったと思います。もし、差別的感情を持っていて障害者だと意識していれば、打算によって殴らなかったかもしれません。また、博愛感情を持っていて障害者だと意識していれば、気づかいによって殴らなかったかもしれません。障害者と意識するのは良いことなのでしょうか悪いことなのでしょうか。

 それは、打算なのか気遣いなのかによるのでしょうが、それって内面であり、外からは見えません。障害者には配慮が必要である一方で、健常者と同じように分け隔てなく接するべきともいわれます。この使い分けを内面的な理由でできるのは自分自身の行為だけです。他者の内面は知ることが出来ませんので、不可能です。障害者を意識したほうが良いのか、しないほうが良いのかは、内面を持ち出さなくても、常識的に判断できそうな気がしますが、結構、難しい場合があるのではないでしょうか。難しいのは「気遣い」というものが「パターナリズム」同様に、論理的には語れないところにあるように思います。例えば、中学生の私はどういう態度であるべきだったのでしょうか。結論は分かっていますが,その理由は簡単ではありません。