見世物

■ 24時間テレビ

 24時間テレビは嫌いでした。理由は全くの個人的好みです。映画やドラマでも感動大作というのはあまり好きではなく、コメディや推理モノ、SF(映像)が好みです。「感動」には逆境や不遇がつきものですが、強調されすぎると、重くて、負担に感じます。フィクションの映画でも、深刻すぎると、後味が悪くなります。その手のものは娯楽としてはあまり見たくありません。テレビは娯楽だと思っているので重い「感動」ものはあまり見たくなかったのです。

 ところが、家族が見ているので、横目でみていると、それほど重くありません。それでいて適度に感動させてくれます。ほどほどであれば、笑うのと同じように怒ったり、泣いたりするのも気持ちよいです。たまに涙を流したり、凄いパフォーマンスに興奮しています。この感覚は、オリンピックを見ているときと似ています。ただ、毎日見るものではありませんね。普通ではない境遇の人が尋常ではない努力をするのを毎日見れば、食傷して、飽きます。なので、年に1回程度が適当です。つまり、オリンピックと同じお祭りです。一年中お祭りはやってられませんがが、たまにならよいです。いずれにせよ娯楽です。

 本当は一年中、向き合うべきかもしれません。助けが必要な人々が今も世界中にいます。彼らのことを常に考え、日常的になにかをしなければならないのではないかという気持ちにもなります。ただ、そうなると、この豊かな日本でのうのうと暮らしているわけにはいかなくなります。世の不正や矛盾を正すために今の環境を捨てて行動しなければなりません。そこまで行くともはや娯楽ではなく使命ですし、私にはできません。深刻すぎて憂鬱になってきます。憂鬱になるのは、自分には使命の解決策が見いだせないからです。

 もちろん、解決策を模索して行動する人もいます。素晴らしいです。しかし、大多数の人は普通の日常生活をおくるだけで、わたしもそうです。そして、たまに非日常の感動娯楽を楽しみます。世の中に害悪を垂れ流さないのなら、楽しんでも構わないでしょう。以前は娯楽にはなりえないと感じていましたが、そうでもないと、今は認識が変わりました。しかし、本当に害悪を垂れ流していないのか少し気になります。24時間TVは批判を受けています。それが正鵠を得ているのなら、もう一度、考え直さなければなりません。そこで、ざっと主な批判とそれに対する見解を述べます。

1.過剰演出
 大げさなナレーション、美辞麗句で嘘くさい。泣かそうという演出が鼻につく。24時間マラソンは、放送終了ぎりぎりにゴールするように時間調整している。

 → 事実に関する嘘が無ければ、演出は趣味の問題ではないでしょうか。私もあの演出は好みではありませんが、弊害はないと思います。マラソンはそういうペース配分と思えばいいと思います。競走ではないのですから、八百長でもありません。つまり、これは批判というより、番組の評価が低いだけではないかと思います。

2.障害者自身が好ましく思っていない。
 健常者は感動するが、障害者は見世物にされているようでいい気分ではない。

 → 好ましく思っていない障害者もいると思いますが、少なくとも出演している障害者はそうではなさそうです。好ましくないという意味が、具体的に被害を受けているというのであれば問題ですが、好きではないというだけなら、かつての私のように見なければ済みます。見世物が悪いのは、本人の意志を無視して搾取されていたからです。テレビがそもそも見世物ですから、出演者の自由意志ならよいのでは。

3.出演者が高額のギャラをもらっている。
 チャリティーなら無償でやるべきだ。

 → チャリティーとは、無償で行うという定義でもあれば、看板に偽りありです。しかし、社会貢献であればよく、必ずしも、出演者は無償ともいえないようです。

4.CM単価が高く、もうけ主義

 → CM単価は宣伝効果(視聴率)に応じて変えてもよいのでは。

5.障害者に危険なことを無理にやらせている。
  そのうち事故や遭難を起こす

 → これは演出と絡みますが、実績から判断すると、見た目ほど危険でもないのではないでしょうか。事故が起これば番組への打撃が大きいので、安全と健康の管理は当然しているでしょう。スポーツ中継でも事故はありえます。

6.無用の努力を強いている。

 → 昨年の花ちゃんのみそ汁は児童虐待と批判されました。私は前述のように再現ドラマは苦手なので見ていませんが、本人が希望していないのに、親が教育と称して、無用の努力を強いるのは良くないと思います。

7.所詮お祭り

 → お祭りだし、それで構わないと思います。

 確かに、もっともな批判もあって、内容を見直す必要はありますが、「趣味に合わない。気分が悪い」というだけのものが多いです。つまらないので見たくないという低評価にすぎず、社会的害悪を垂れ流すあってはならない番組というほどではありません。趣味に合わなければ見ないことです。わたしも、役者が演じる再現ドラマは趣味に合わないのでみません。見るのは、様々な演技や制作成果です。凄いと思います。スポーツ中継を見るのと同じ感覚です。

■ 慈善と興業

 チャリティーとは、公益的な活動のことで、具体的には社会的弱者の救済・支援活動だそうです。その費用は、寄付(募金)で賄われることが多いですが、必ずしもそれに限定されないようです。とはいえ、現実には募金を求めるのがほとんどですから、募金について考えます。募金を募るには世間に社会的弱者の窮状を知らしめて、慈悲の気持ちをもってもらう必要があります。つまり、社会的弱者は困っており、助けが必要だと訴えなければなりません。これと「見世物」はどこが違うかというと、訴えられた側の気持ちであって、訴える側の行為にあまり違いはありません。弱者の窮状を見て、珍しいものを見せてもらって面白かったと感じてお金を払えば「見世物」の料金になり、同じものを見ても、かわいそうだから助けてあげなければと感じてお金を払えば慈善の募金になります。

 ところが、訴える側から、どのような訴え方が良いかと考えると、結構複雑です。助けを求めるという慈善の目的からすれば、悲惨な状況をプレゼンテーションしなければなりません。いわば、社会の不条理をつくドキュメンタリータッチになります。これは、どうしても陰鬱な気分になり、楽しいものではありませんが、それでもお金を出すのなら、慈善の気持ちといえます。一方、ビジネスとしての見世物の目的からすれば、お客に喜んでもらわなければなりません。あまりに悲惨だと、気分が落ち込んでしまうので見たくなくなってしまいます。従って、お客を喜ばせる演出がなされます。例えば、障害者であるにも関わらず、健常者と同じかあるいはそれ以上の芸を見せるとかです。これが24時間テレビのやっていることで、感動見世物と批判されています。

 確かに、もはや助けを求めているとは言えず慈善ではなくなっています。しかし、それが悪いかというと、むしろ望ましい状態です。健常人と同等の仕事をして報酬を得ていることになります。完全に同等かというと障害者というハンデを逆用しているようなところがあってそうでは有りませんが、ハンデは個性にすぎないともいえます。健常人の間でも資質や能力の差、つまり個性がありますが、これを克服、あるいは逆利用して仕事をしているわけで程度問題です。障害者、健常者という質的な区別がなくなって、個性の程度の差があるだけです。現実に、昔から、慈善活動ではない障害者が行う興業が存在します。つまり見世物ですが、搾取の構造がなければ自立した仕事です。現代では障害者自信自身が運営する興業もあります。

 ただ、残念なことに総ての障害者が自立できるわけではなく、どうしても助けが必要な人もいます。この場合は本来の意味の慈善活動で助けることになりますが、24時間テレビのような感動プレゼンテーションにはなりません。あくまで暗く、考えさせるドキュメンタリー番組になります。なお、健常者も含む全員が高齢になれば、自立できない障害者に確実になります。自分がそうなったときに、感動ドラマに出てくるような献身的な家族がいないと救われないのも困ります。わたしも、家族も凡人です。

 慈善と興業は、どちらが良い悪いではなくて、別種のものとして両方、存在してよいと考えます。24時間テレビはその中間形態です。そして、私は娯楽として24時間テレビを見ることができるようになったというわけです。ただし、毎日見る娯楽にまでは至っていませんし、毎日、提供されてもいません。障害者の行為を健常者のそれと同じように娯楽として見ることにまだ抵抗があるからです。笑いのネタにするのは不謹慎という感情がどこか残っています。自分では笑いたくても世間の眼が気になります。ハゲネタの類なら屈託なく笑えるのにです。落語では粗忽モノ、知的障碍者、盲人、ろう者も笑いのネタにされますが、なかなかその境地には達せません。