霊能者

 8月8日前後に、なぜか、名作ドラマ(及び劇場版)「トリック」に出てくる霊能者達を思い出しました。霊能者は、不信心者を呪い殺すという恐るべき霊能力で、人々から恐れられている一方で、人々の悩みを解決することで、崇められ愛されてもいます。もっとも、その霊能力はインチキで、最後には貧乳の山田奈緒子によって見破られ、死んだり、逮捕されたりします。死ぬパターンには自殺、他殺、天変地異とさまざまです。ドラマはおちゃらけていますが、インチキが暴かれ、騙されていた人々の目が覚めて、ハッピーエンドとなる程、すっきりとはしていません。人々は、霊能力者を失い嘆き悲しむという後味の悪さが残る結末が多くあります。

 なぜ嘆くかというと、人々はそのような霊能力者を必要としているからなのですね。実は、インチキだと分かっていたのかもしれませんが、あえてそれを意識しないようにして、信じていれば、心穏やかでいられます。霊能力者への恐怖と愛情は求心力となって、集団を維持安定化しているのです。集団は霊能力者の霊能力ではなく、霊能力を信じる人々によって維持されているといえます。

 集団を維持する求心力は、霊能者個人の政治的手腕、集団運営の実務能力ではありません。そういう俗事は、大抵、番頭役が取り仕切っています。霊能者の役割は、人間が持っている能力を超えたもので、神とつながる霊性のようなものですが、それらは、歴史や伝統、伝説、血筋という、努力では手に入れられない力で裏付けられます。ただし、インチキで手に入れられますが。

 インチキにせよ本物にせよ歴史や伝統、伝説、血筋などで裏付けられた霊性は、その集団を象徴するものであって、直接的な生産性はありません。人々を集団に引き付けておく求心性が主な役割となっています。象徴とは理想像ですから、欠点がありません。したがって生身の人間がそれを演じるには結構な犠牲を強いられます。インチキでも大変なのです。霊能者は人間性も持ち合わせていますが、好ましい人間性でなければなりません。ところが好ましい人間性だけの欠点のない人間は存在しませんので、人間性といいながら、どこか人間離れしたものになります。霊性を持つ象徴となったものには、普通の人間の生活はありません。

 つまり、霊能者は人々に祭り上げられた存在とまでは言いませんが、人々の需要に必死に応えているような存在です。実務を行う番頭役以下は、実務的な失敗をすれば、失脚するので、新陳代謝がありますが、霊能者は、そのような失敗した者の処罰を行うなどの役目を行いながら、一生霊能者であり続けなければなりません。「やーめた」と簡単に放り出すわけにはいきません。もし、そうしようとすると番頭役は必死に遺留します。頻繁に霊能者が交代するようでは、象徴性が減じ、求心性も損なわれてしまいますからね。番頭役が黒幕で霊能者を利用しているというのも、よくあるパターンです。

 ドラマは、インチキ霊能者を暴くのがメインのストーリーですが、本物の霊能者も存在するのでないかという含みを持たせています。劇場版の「ラストステージ」では貧乳の山田こそが、本物の霊能者であることを示唆して終わってしまいます。ドラマは余りにも合理的に割り切ってしまうと余韻がなくなるので、このような演出になっているのだと思います。では、本物の霊能者が持つ本物の霊能力とはどんなものでしょうか。

 私は、忍耐力だと思います。前述したように、欠点のない人間性つまり非人間性を一生演じる忍耐力です。これは、おいそれとできることではありません。だから霊性なのではないでしょうか。そんな霊性なんか必要としない世の中がいいと私は思いますし、その方向に向かっていると思います。しかし、まだまだ、トリックに騙されて居るほうが、知らぬが仏で幸せだと思う人も多いようです。