気に入らないだけ

 匿名のネット上では,「ぶつかってやる」という発言が溢れていますが,新聞の投書でもあるんですね。私の周囲でも,歩きスマホの奴が近づいて来たら蹴飛ばしたくなるという人がいます。極普通の人で,もちろん実行はしませんが,そういう気持ちになるのは分からないでもありません。

 ポケモンGOのブームはどうなるか知りませんが,車の運転では同様なことが昔からありました。マナーの悪い車をとっちめてやろうという人がトラブルを起こすのです。それに関する車の運転の心構えを読んだ事があります。昔のことで出典は忘れてしまいましたが,次のような内容です。

 車の運転では自己主張をしてはならず,周囲の流れに従うことが重要である。割り込みなどのマナーの悪いドライバーに遭遇しても,決して正義感から教育的指導をしてやろうなど考えてはいけない。それは警察の仕事であり,それぞれのドライバーが行えばトラブルと事故の元である。

 ルールや法は守らなければいけませんが,違反者の処罰を各人が警察になって行う事は出来ません。例えば凶悪な殺人犯を私刑にしてしまえば,自分が殺人犯になってしまいます。かつての豊田商事事件の犯人ぐらいしかそんなことはしません。ところが,比較的軽微な違反になると,ダーティハリーになってしまう人が増えてきます。法ではなくてマナー違反になるとさらに多くなります。

 前述のとおり私の周囲でも,歩きスマホの奴は避けたくないという人は結構います。しかし,信号無視の車が突進してきても,避けないという人はいません。どちらも正義感情を感じている筈ですが,なぜ行う行動が違うのでしょうか。言うまでもなく,処罰行為の代償に大きな違いがあるからです。

 このことを考えて見ると,正義感とは割と功利的だなという気がしてきます。そもそも,マナーや法が造られたのは,個人が勝手な行動を行うと,利害がぶつかってしまい混乱が生じて,結局個人にとっても得ではないからです。マナーや法は遵守しないと効果を発しませんので,取り締まる必要があります。この取り締まりを個人が勝手にやり出すと,無法状態に戻ってしまいますので,取り締まりを専門に行う警察の類が秩序を維持するようになっています。マナーの場合は警察は存在しませんが,トラブルが生じたときに個人対個人で解決を図ろうとすると,これまた無法状態になってしまいます。そこで,マナー違反者は社会的に批判されるような仕組みになっているのだと思います。いずれにしても,取り締まりは個人ではなくて,「公共」の行為です。

 公共の取り締まりは第三者がビジネスライクに行い,被害者感情をあまり考慮しません。それを血が通っておらず,非人間的だとの意見もありますが,私はその方が良いと思います。とはいえ,取り締まりシステムが造られた起源は個人の功利的な感情ですので,私設警察をやりたがる人は絶えません。私も渋滞の高速道路で路肩走行をしている車を見ると,セイギカンがムカムカとわき上がってきて悪態をつきたくなります。ただし,そのセイギカンは専ら個人の利益が損なわれて気に入らないという被害者感情だけで,公共の正義をどれだけ意識しているか怪しいところがあります。両者を明確に区別することは難しいかもしれませんが。